2014/07/01

おならについて

「おならは我慢しちゃいけませんよ」が私の父親の口癖であり、唯一の教育だったかもしれない。(「勉強しなさい」と言われたことはないので)

父は医者になってからしばらくの間アメリカに留学していたから、社会的作法がアメリカ的な側面があり、おならを我慢するな、もその一つだったと思う。他にはケチャップ大好きなどの特徴が彼にはある。

おならを我慢するなと言われても、日本の社会でそれを実践するのは少し困難だなあと思いつつ学生時代を過ごしていたけれど、心理的な縛りがなかっただけましだろう。

自分がアメリカに留学していた時のこと。おならが出てしまっても"Excuse me."と言えば終わり、という場面を何度か目にした。若い女性であってもそれを恥ずかしがる事はないのだ。なるほどこれは良い社会的作法だと実感できて、自分も「おならは我慢しちゃいけません」派になった。

おならに関して良く話すエピソードは2つ。

ひとつは”屁負比丘尼(へおいびくに)"の話。時代劇で高貴だったり裕福な家の若い女性に必ず尼さん風の女性が付き従っているけれど、この比丘尼が放屁や過失などを引き受ける役だったという事。それほどに放屁ははしたないこととされていたらしい事を示すエピソードとして。

もうひとつは禅宗の修行道場は音に大変厳しくて、下駄の音、食事の音も出すことはいけない。唯一うどんをすするときだけはOKらしいけれど、どうもトイレの音も駄目らしい。そこで音がしない排便や放屁の仕方を身につけるのであると禅宗のお坊さんが話しているのを伺ったことがある。

どちらも臭いに対しては寛容で、音に対しては敏感な、当時の様子がうかがい知れる。

「音がしなければOK」がもともとの解釈なのだろう。

ところが、日本ではおならがいじめの材料に使われたりするという問題がある。
いじめとは教育者でない人物が相手を教育に見せかけ無理強いしたり矯正しようとしたりすること、というような言われ方をする。一般的に「これがマナー」とされるような事象があると、それに反した人を教育者でない人々が「指導」をするというような風俗・習慣が人間社会にはあり、特に学校の中では容易にそれが起きやすい。例えば音がでないおならの場合ですら「おまえやっただろ」というような発言をする人物が登場しやすく、これがいじめにつながっていくかもしれないと恐れる子供たちは多い。

したがって学校ではおならが出来ない、うんちが出来ない、だからお腹がいたい。学校にいけない。そんな子供を見るたびに、マナーの拡大解釈を呪い、大人はちゃんとしろと憤り、自分の無力を悲しく思う。

トイレで大便をすることすらからかったりいじめの対象にするような残念な子供も未だにいるのだろう。そのような人物の方にこそ問題がある、ということをわからせるためには小さな頃から、「おならは恥ずかしくない」「うんちも恥ずかしくない」と教育するほうがよほど有意義だと思う。生理現象をマナーに組み込んでしまうことは有害ではなかろうか。

だいたい、「きたなーい」とか言っている子供に限って本当の清潔操作のことなどわかっていない。もちろん潔癖症の人も全然わかっていない。科学を学ばない、理解できないとこういう事態に簡単に陥ってしまうから教育は重要だと思うのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿