毎日大量の文章を書く割にはブログを更新していませんでした。「難しすぎる」と言われてしまうと反論が出来ませんが、年を取ると説教めいた内容になってしまいますし「つまらない」という意味なんだろうとは受けとめています。それでも伝えたい事はあります。グリーフケアとかアサーティブネスなど、人々が身につけるべき考え方のテクニックがあるのですが、その導入として罪悪感の問題は避けて通れないと思い、書いたものです。
「信頼できる人に心の中を伝えてほしい」という事が主題です。そして現代では精神科医のみならずプライマリ・ケア医が神父の代わりになるかもしれない。可能であれば心の中を文章や詩にしてほしい、という内容を書きました。
Guilt(罪悪感) and Confession(懺悔)
沈黙(サイレンス)という映画があって、遠藤周作さんの原作だと思うんだけれど原作は読んでいません。アメイジングスパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)が主人公で、脇をクワイ・ガン・ジン(リーアム・ニーソン)と、カイロ・レン(アダム・ドライバー)が固めているので、ビジュアル的にも大変見ごたえがあります。
作品の中で、神父という存在が「信者の方々が懺悔する先」として描かれる場面があって、なるほどそれはそうかもしれないと思いながら見ていました。
台湾の天才IT担当大臣、オードリー・タン氏は月に1回カナダの精神科医とリモートでやり取りして心の整理をしているという話を家族から聞きました。精神のバランスを保つためには「告白の壁」みたいなものが天才にも当然必要なのよね、と深く納得したことがあります。それと沈黙の一場面がとても重なりました。
岸辺露伴は動かない、という作品の中にも天才岸辺露伴が、「この懺悔というシステムには興味がある、自分も懺悔をしてみたらなにか変わるのだろうか?」という発想で懺悔室に入る、というシーンがあります。(間違って神父の側に入ってしまい、驚くべき懺悔を聞くという風に話は展開しますので、露伴は懺悔しないのですが)
もちろん悩みがある人にとっては告白は意味がある事であろうけれど、オードリー・タン氏、あるいは岸辺露伴氏のような、悩みがないと人からは見える高度な知性・強靭な精神の持ち主であっても告白は当然意味があるだろうとは思われるのです。
自分の診察室に場所を移します。
特に高い知性を持つ患者さんほど多くの悩みを処理出来てしまい、むしろちょっとした体調の不良として感じているだけの場合が多いように思われ、それを悩みとは表現せずに、例えば「胃が痛くて」などと受診したりします。
もちろん注意深く除外診断をするのですが、こういう時我々のような専門家の直感は90%正しいとされ、初診時に答えをなんとなく持っています。そして重大な病気がなく、自分には聞き出すことが出来ない何かがあるなと考えた時「もしもあなたの中になにか矛盾らしきもの、あるいは解決困難な問題があるのでしたら、専門職に相談して何も損はない」という事を言ったりします。このぐらいの婉曲表現がわかり、ほとんどの問題を自己解決できてしまう人は非常に少ないわけですが。
それは要するに精神科にかかってみてはどうか、という意味です。
その「心に抱えているが明確には形にならない思い」は罪悪感であることが結構あると思います。罪悪感とはなんでしょうか。そして、その告白はどう意味があるのでしょうか。(心理学では恥と罪悪感は自己意識感情の一つとされ、1990年以後注目されているようです、マーケティング用語ではギルトフリーなるものがあります)
我々はなにも倫理にもとることをしたときにだけ罪悪感を感じるわけではありません。むしろ相手に対する反応としてそのような感情を持つことが多いかもしれません。
サバイバーズ・ギルト
マネー・ギルト
しかしこの情緒は自然発生しにくいと考えられます。人間は怒鳴られたり、モラハラなど言葉の暴力を受けたときに、被害を受けた自分には全く非がないにも関わらず罪悪感のようなものが刷り込まれてしまうのだと何かで読みました。このような攻撃を加える人々が多くいる以上、ギルトという感情の生成を完璧に避けるは不可能ですので、その対策方法を考えるのが上策でしょう。
この罪悪感という感情を回避するのには「日記を書く」事は大切で、それは自分は悪くないということをはっきりさせる効用があります。私は毎日たくさん文章を書きますが、物事が客観視できることによって「客観的に見て自分は悪くはないのだ」という事がはっきりしますから、嫌な事があっても刷り込みを回避できています。もちろん自省につながる事も多くあります。証拠を残す意味もあって一石二鳥だからぜひ日記を書きましょう、と言います。罪悪感回避のみならず癒やされる可能性すらあります。この文章の題名を「Guilt and Confession」としましたが、小説にはこのような解釈が出来るものがあって、トーマス・マンの作品は彼の悩みを昇華させたものだと論じた本があります。
しかし言語化というのは実に難しい事です。子供の場合は当然そうですし、読書量が少ない場合もそうです。だから誰にでも出来るかというとそうではないのです。
キリスト教にみられる懺悔:confessionというシステムの根っこには元来そういう思想(虐げられて、間違って罪悪感を持っている人々の救済)があるのではと思います。昔は今よりももっと理不尽で、言葉の暴力を受けた結果、全く悪くもないのに罪悪感を感じる人が多かったのではないか、しかも誰にも言えなかったのではないか。そうした人を救うためのシステムとして考え出されたのかも、などと思うのです。本当かどうかはわかりませんけれど、自分が教祖ならそういうシステムは作るんじゃないか。
人を赦しなさい、という教えも、人を赦す人だったら自分も赦すだろう、ということでやはり根っこには自分を責めない、という思想があるのではないか、と思います。
また、詩を書く、という解決の仕方もあるでしょう。日本には短歌や俳句など詩に親しみやすい環境が整っていますし。散文である日記とは違い、詩を書けばそれは芸術という事になります(ジョーゼフ・キャンベルは繰り返しそれを言いますし)から、もしも自分の気持ちを日記ではなくて西行のように詩にできればそれは昇華できたという事になるのでしょう。
「日本人はどう死ぬべきか」という本で、養老孟司さんは「芭蕉や西行の晩年の生き方が良い」と言っています。私が「西行になれ」と書いた上の文章は養老さんの本を読む前ですが不思議な一致です。自分は「詩を書いたら良い」という意味で書き、養老さんの言葉は「年寄は固執せずに芭蕉とか西行みたいに転々とするぐらいが良い」という意味ですが、芭蕉や西行のように心情を詩に出来ることと、晩年を固執せずに暮らしたこととは関連性があるんじゃないかしら、とは思うのです。