2021/06/01

2020年

 https://www.tjapan.jp/entertainment/17199895


ナタリー・ポートマンとジョナサン・サフラン・フォアとの往復書簡がニューヨーク・タイムズスタイルマガジンに載っていました。

紹介する必要がないほど有名な俳優ですが、普段からユダヤ人というバックグラウンドを強調する発言が多い才媛ですし、テロというような行為がどう発生し、どう人類が対処すべきか考えている女性という印象があります。ジョナサン・サフラン・フォア氏は翻訳されている作家ですが読んだことはなく、しかしユダヤ系の作家でテロを題材とし、視覚的実験を行う文筆家だそうです。現在43歳で、当時はまだ30歳代でしょう。

2020年は #COVID-19 と #BLACKLIVESMATTER という2つの大きな出来事で、人類史にとって重大な1年となることは間違いがありません。何十年にも渡り思考実験が繰り返されてきた出来事が、グローバリズムあるいは通信網の発達でメディアの情報独占が形を変え、やっと現実になったと言い換えることができます。

この往復書簡が自分のTLに出現したのは全くの偶然で、2016年の古い記事がたまたま掘り起こされたというものです。ニューヨーク・タイムズは白人リベラル系の主張をするメディアだという事は意識しておく必要はあります。

10年に渡りやり取りしていた、メールによる往復書簡を全部消失してしまった、という出来事があって、また二人は公開で書簡のやり取りを始めるわけですが、この形態は欧米には時々あって、哲学者などはよく公開で書簡の往復をしています。

自分も何人かの人々とこういうメールのやり取りをすることはあって(むしろ皆さんよりは甚だ多くて)、その多くは失われたか、データはあるけれどもそれを開くアプリケーションはないし面倒くさいしで放ってあります。メッセンジャーを使っている現在では、やり取りは蒸発していくに近い性質を持っています。しかしやり取りした内容というのは、大筋としては存在しているもので、情報が失われた事を嘆く必要はないでしょう。

他愛のない会話が続きますが時々考えさせる事があります。往復書簡の第3日め、本居宣長の言う「もののあはれ」の話が出てきます。彼らはワンダーラインと表現していたけれど、もののあはれ、のほうが良いでしょう。本居宣長は江戸時代の国学者で、自分にとっては特別な人物です。というのも、彼はおそらく日本の歴史上ではじめて「自分たちは自分たちじゃない?」と気づいた人だから。(宗教を信じている人には怒られてしまうけれど、神様が作ったものじゃないことに気づいた)例えば日本語の発音は日本語の発音であって、中国語の発音は中国語の発音であって、発音を共通の方法で記述しようなんてバカらしいことではないか?という事に気づいています。(それまでの日本人は中国語の発音を日本語で表そうと必死に努力していた)あるいは儒教などというのは人間の本来の姿ではなくて、万葉集からはじまる日本人による著作を検討するに、きれいなものをきれいだなと感じるような素直な心こそが人間の本来の姿ではないか?というような事に気づいた。それが「もののあはれ」です。

それは現代ではセレンディピティなどと呼んだりするでしょうけれど、これこそ人間の本来の姿なのではないかと、実存主義(第一次世界大戦後に欧州の人々はそれに気づいた)出現のはるか以前に気づいた本居宣長は凄いと思うのです。

ナタリー・ポートマンは語源にこだわる人です。それはとても大切な視点だから、彼女を彼女らしくしていると思います。その彼女が仏教の「足るを知る」という考えがあまり理解できないというのが第4日目。決して手に入らないとわかっているものを求めるというのが(ユダヤ)民族としては命の原動力になっているかもしれないという事を語っています。それはそれでその人の哲学ではあるのだろうと思うし、自分はどちらかというと人間として生まれてしまったが、果たしてそれで良かったのか、という事を考えるのでそれは仏教の影響なのかもしれないと興味深かったです。

書簡を通じて「習慣」とか「ルール」という概念はよく登場します。「習慣」や「ルール」を自ら決める事が出来ない事をフォア氏が嘆き、逆に自分でそれを形成するのは大変だとポートマン氏が答えたり。彼らは宗教、政治、芸術、について語っていました。そして色については語られていませんでした。

なぜなら2020年以前の往復書簡だから。

今回 #BLACKLIVESMATTER では @billieeilish (ビリー・アイリッシュ=この2020年を具現化したような強いメッセージを持つ女性歌手)が"YOU ARE PRIVILEGED WHETHER YOU LIKE IT OR NOT. SOCIETY GIVES YOU PRIVILEGE JUST FOR BEING WHITE..."と投げかけています。自分は普段からビリー・アイリッシュの発言に感心しているので、彼女の言いそうな事だと見守っていました。意外にも1週間後ポートマン氏も同様の意見を表明しています。意外にも、と書いたのは彼女についてはそうした発言は初めてであったからで、つまりそれほど考え方を変化させる出来事なのだろうと感じます。

いろいろな概念は層状構造を成していて、それらを一元的に論ずることは出来ません。自分があまり学術的な出来事以外を書かないのは、自分の心の構造がすでに多元的であって複雑だからで、それを一つにまとめるほどには成熟していないから、あるいは衒学的である自分を避けたいからと言えるでしょう。

#COVID-19 への対応で見られるいろいろな不均衡に関しても多元的な問題であって、それを大きな主語で語ることには抵抗が常にあります。(PCRが多いとか少ないなどと偉そうに語ることはは自分には向かない)私に出来ることはせいぜい目の前の問題を解決しようと努力する事ですが皆さんはいかがでしょうか。

まとめますと、

  1. 往復書簡は良いものです。自分もアクティブだったのは前述の彼ら同様30歳代だと思いますが、成熟を促す行為かもしれません。良い相手と出会えると良いです。
  2. 色、という、大きな問題がとうとう人類史の前面に出てきたかもしれない。このPRIVILEGEというものを解決するものがAIなのかどうか。(すでに妄想中)
  3. 本居宣長はすごいぞ。

です。

※1年ほど起動していなかったPCに書きかけのテキストが保存されており、それを修正してアップしました。
※PRIVILEGE: 白人のもっている特権(最近サンデル教授が能力もただの運である、という論旨の著作を書きました)

2021/02/04

スローシンキングのススメ

あんまり啓発本めいたことは書きたくないんですが。過去の自分の日記を読んでいたら面白かったので投稿します。

私が習った解剖学第一の市川厚教授は電子顕微鏡写真を撮る名手であった。マイナス100度以下に冷やした銅のインゴットに組織をポンとぶつけると瞬間冷凍ができる。それを非常に薄くスライスして電子顕微鏡に入れ撮像するというテクニックを開発した。瞬間冷凍された切片で今まさに細胞膜と融合しようとしているリボソームあるいはゴルジ体などの姿を捉え、その機能を明らかにした。その瞬間を市川教授が書いたイラストはGray's Anatomyにも掲載されていた。

解剖といえばマクロばかりが強調されるが、ミクロ、さらに電子顕微鏡写真もかなり登場したのが我が横浜市大の授業であった。さて、市川教授が撮像したかどうか、あるいは解剖学第二教室は脳神経がご専門だったので岸田助教授の授業だったかもしれないが、脳の神経シナプスの電子顕微鏡写真があった。細胞に無数の神経終末が接している写真だ。「脳細胞の神経終末は、抑制系ばっかりなんだよね」と先生が仰った気がする。この言い方だと岸田先生の授業だったかもしれない。

その瞬間に「あ!」と思って、てんかんという病気が理解が出来た。一つの神経細胞が2分岐、3分岐して次の神経細胞に情報を伝えているのだから、その信号には常に抑制をかけないとあっという間に脳がショートして焼け焦げる(これがてんかん)のは自然の摂理だ。脳はよく一部分しか使っていないと言われるのもそう考えると誤解で、常に抑制がかかっていると考えれば良い。当然全部使っている。

ぼーっとしている状態というのは抑制系も休む場合が当然あるので、それがひらめきの正体であると考えれば理解しやすい。何かひらめいたときにfMRIや脳波が動くのは、ひらめいた「後」に抑制系から抑制がはずれた状態、と理解している。必ずしも沢山脳が動くことがひらめきを生むわけじゃない。

と、思ったのが20歳ぐらいの事で、その考えは30年あんまり変わっていないからもしかしたら正しいんじゃないかと思っている。

だから自分は脳の活動を活発に、と考えたことはない。時間を区切ってのブレインストーミングなんかもってのほかだと思っていて、常に「ぼーっとしよう」「ぼーっとしよう」としている。定速で考え続けるのだ。

なにも考えないということではない。最適な経路で考えるために脳を抑制することを常に考えている。自分は頭の回転を調べるようなテストではとても悪い点数を出す。IQを測定しても120はないと思う。成績も正直たいしたことはない。

まあそれでもスローシンキングとでも言うような方法でなるべく常によどみなく考えるようにしている。沢山のものごとをゆっくりゆっくりかき混ぜる、というようなイメージである。短距離走が得意な人がいれば、長距離走が得意な人がいたっていいじゃない。自分の脳味噌の瞬発力はちょっとなーと思った20歳の時に、少しギアを変えたのである。

2021/01/24

プラセボ効果とノセボ効果

プラセボ効果とかプラシーボ効果、という言葉を聞いたことがあるでしょう。

プラセボ(Placebo)は18世紀に初めて記載がある言葉で、1811年には「患者を喜ばせる薬」としての記載があるそうです。騙しではなく、プラセボ効果も重要な価値なのだ、と再定義したのは1955年の論文であり、以後一般的な概念となっています。→リンク

現代におけるプラセボ効果は、患者の気持ちが前向きであるときに偽薬でも症状の改善が見られる事、が大まかな定義です。例えば新薬の治験に参加する人々は当然気持ちが前向きであるから、偽薬に対してもそれなりに反応して改善を示します。もちろん統計学的にそれを凌駕する治療効果を出さないと薬としては認められません。

一方患者さんが後ろ向きである場合には、効く薬であっても効かなくなるだろう、そういう言葉はきっと定義されているだろうと思っていましたが、最近まで知りませんでした。2020年11月にBBCの報道でそれを見つけるまでは。


元の論文(レター)はNew England Journal of Medicineに掲載されています。→リンク

恥ずかしい事に、2020年2月には同じNew England Journal of Medicineに、「PlaceboとNocebo」という総説(レビュー)が掲載されていたのを自分は見逃しておりました。

ノセボ(Nocebo)効果、と言います。

ノセボ効果は、飲みたくない薬を飲まされたときに、偽薬であっても症状が悪化あるいは副作用を訴える事で、十分な理解と同意なく治療が開始されたときに生じやすい。スタチンによる筋肉痛はノセボ効果が結構あって偽薬でも筋肉痛を訴える事が上に示した論文にかかれています。

スタチンによるノセボ効果は明らかに報道が影響していると思います。現代人は正確ではない報道によって不利益を被りますが、その一つの例です。ワクチン、ステロイド外用……情報の氾濫は大きな混乱を生んでしまいます。

さて、すでに概念として存在する、プラセボ /ノセボという言葉ですが、ラベル付けする事はそもそも意味がないんだという議論もあります。治療をするときには心を尽くして患者さんに説明し理解してもらい、患者さんからどういう反応があったとしても先入観なく淡々と評価する事を繰り返すべき、という主張です。

私自身は患者さんたちとSNSでつながる事で、この問題を解決しようとしています。自分は「これは公正だ」と思う情報を発信し続けますし、患者さんからも迅速にフィードバックをもらう事によって、患者さんの不利益を最小限に出来ないだろうか、という社会実験です。今のところこれは上手くいっているように見えます。