銃・病原菌・鉄とは違う、善玉菌の描く地図
―― 発酵の旅と、酵母が刻んだもうひとつの地図 ――
ラガービールを口にするとき、私たちの潜在意識はどこを旅しているのでしょう。
私の場合、伯父の所属した仙台のキリンの研究所や、ジャパン・ブルワリー時代に勤務していた祖父の姿でしょうか。私自身は飲めないのですが。ある人はバイエルンの石造りの地下室、陽光の差す修道院、オクトーバーフェスト、あるいはジョッキで交わす乾杯だったりするのでしょう。そんな風景を思い浮かべたとき、「パタゴニア」を思い出す人は皆無でしょう。でも、一部の科学オタクは、2011年に発表されたある研究を覚えているかもしれない。
2011年、アルゼンチンの科学者ディエゴ・リブカインド(Diego Libkind)らのチームによって、南米パタゴニアの森林から Saccharomyces eubayanus という野生酵母が分離・同定されました。この発見は、長年不明だったラガービール酵母 S. pastorianus の「もうひとりの親」を突き止めたことで、世界のビール史に新たな光を当てました。
その後、S. eubayanus は北米やニュージーランド、チベット高原など様々な地域でも発見されましたが、これらは比較的進化が進んだ株であることが分かっています。近年、アルゼンチン・パタゴニアの遺跡から発見された非常に古い土器から検出された株が、これまでに知られていたどの系統よりも古い特徴を持つことが明らかになり、あらためてこの地が低温発酵酵母の保存庫として重要だったことが浮かび上がってきました。
つまり、単にパタゴニアで見つかったというだけでなく、「より原初に近いeubayanusが現存していた場所」として、パタゴニアは特別な意味を持つのです。
現代のラガービールは、この南米由来の酵母と、ヨーロッパのビール酵母 S. cerevisiae が偶然に交配して生まれたハイブリッドから誕生し、耐寒性を獲得しました。そしてそのハイブリッドが、バイエルンの冷たい地下室でラガー文化を花開かせたのです。
ただしあまりに完璧なハイブリッドだったがゆえ、20世紀初頭にあって均一に沢山のビールを作ることが出来る最大の利点により世界を席巻した反面「どれを飲んでも同じ味で単調だ」という感想を持つ人がいたかもしれません。実際ビール酵母の S. pastorianus の改良は困難で、S. eubayanus が発見されるまでは無理だとも言われていたのです。これはまた別のストーリーです。
ハイブリッド酵母とはなにか
「ハイブリッド酵母」とは、異なる種の酵母同士が交雑して生まれた、性質の異なる新種を意味します。S. pastorianus は、発酵温度が10度前後と低く、寒冷地でも安定して発酵を行えるという性質を持っています。
この性質こそが、寒冷なバイエルンの地下貯蔵庫において「長期低温発酵」に適応したラガービールを成立させた鍵となりました。偶然か、必然か。ヨーロッパでラガー文化が花開く裏には、見知らぬ南米の森で、気温の低い環境にじっと耐えてきた酵母の力が働いていたのです。
気づいたかもしれませんがビール酵母には、かのルイ・パスツールの名が刻まれています。彼が19世紀に行ったビールとワインの発酵研究によって、「酵母は生きている」「発酵は微生物によるもの」という認識が広がりました。そして、ミュンヘンの醸造研究所で低温発酵の研究により同定されたこの新種酵母には、彼にちなんで pastorianus の名が与えられたのです。
発酵後のビール酵母を商品にしたものではエビオスとかマーマイトがありますね。
サワードゥ・スターターと糠漬け:発酵の母
ここで、酵母の「保存」や「継承」の概念を考えるうえで知っておいていただきたいのは、サワードゥ・スターターです。サワードゥとは、パン酵母の元種のこと。適度な室温の中で小麦粉と水を混ぜて放置、空気中や手肌に付着する自然酵母が付着して発酵させ、半分捨てては小麦粉を足して発酵を維持したものです。当然スターターは家ごとに違い、味も香りも異なります。フランス語では「ルヴァン」と言い、つまりクラッカー商品になってます。世界中にこのサワードゥを使ったパンがあります。このサワードゥには、ビール酵母の親の一つであるSaccharomyces cerevisiae と乳酸菌 Lactobacillus sanfranciscensis が主に生育しています。
これは、日本のぬか漬け文化にも通じます。ぬか床は糖分を減らし、塩分を入れてスローな生育を促す環境を用意しているのがサワードゥとは異なりますし、大勢を占めていた大腸菌が乳酸菌に置き換わり、時間をかけて酵母が増えていく育ち方も違いますが、各家庭の微生物相によって風味が当然異なったり、酵母と乳酸菌が主体となる点では似ています。代々受け継がれ、無数の酵母、乳酸菌、あるいは酪酸菌が棲むぬか床は、まさに「微生物の生きた記憶」と言えましょう。
こうしたスターター文化が意味するのは、「酵母とはどこかから持ってくるものではなく、我々と共生し、それを日々育み、受け継ぐものだ」という考え方です。
メソポタミアのビールとの接続:発祥と進化
さて「ビールはメソポタミア発祥」などと思っていましたけれど、どう繋がるのでしょうか。確かに、紀元前3000年ごろのメソポタミアでは、パンとビールがセットで作られていことが知られています。パンを水に浸し、自然発酵させたものが“初期のビール”だったというのです。
常温で発酵する S. cerevisiae によるそのビールは、現代でのエール型のビールに近いものです。すぐに腐敗するので作ったらすぐ飲まれていたと言います。
メソポタミアでビール文化が生まれ、はるかな時が経過した中世ドイツでもビールは沢山飲まれていました。1516年4月23日にヴィルヘルム4世がビール純粋令(ビールを水、ホップ、大麦から作ること)を公布しています。公布当時はなかった「酵母」が1551年に付け加えられ、1553年には下面発酵が明記されました。そして1602年、その孫ヴィルヘルム5世の設立したバイエルン州ミュンヘンのホフブロイハウス醸造所において S. cerevisiae と、寒冷地耐性を持つ S. eubayanus が自然交配し、画期的なハイブリッド S. pastorianus が誕生したと考えられています。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見から、現代ビールの祖となるまでわずか110年。この善玉菌は「銃・病原菌・鉄」とは真逆の経路で世界を支配していきます。そんなドラマが水面下で生じていたとは想像もしていませんでした。
パタゴニア:最果ての保存庫
パタゴニアとは、チリとアルゼンチンにまたがる、風と氷と山と森の土地です。アフリカからアジア、アラスカを経由して地球を旅した人類の到達点です。その名を冠したアウトドアブランド「Patagonia」の創業者イヴォン・シュイナードがこの地に着目したのは、自然が過酷であり手つかずで、どこか「地の果て」感があったからだといいます。チリとアルゼンチンにまたがるこの地域は、氷河と山々、森と湖に囲まれた世界屈指の辺境でありながら、そこには人類の古い営みの痕跡も残ります。
そして今、科学的に見てもこの地域は「発酵微生物の保存庫」であったことが証明されました。極端な環境において生き延びた S. eubayanus のDNAが、「銃・病原菌・鉄」とは逆の経路でヨーロッパに伝わり、新たな文化を花開かせたのは素敵な話だと思いませんか。
「行動する環境保護団体」を標榜するこの企業は、原料のトレーサビリティや生物多様性の保全に強いこだわりを持ちます。Patagonia Provisionsという食料部門がありますが、まだ発酵に関して熟考された商品は多くありません。しかしもしかしたら、数年後には「南米原種酵母によるクラフトラガー」なる商品が、“酵母の故郷に敬意を表して”登場している可能性はあるでしょう。
そして、ビールをもう一口
今日あなたが飲んでいるその一杯のラガービール。それはフィルターでろ過されてしまってはいても、氷河のふもとの森で静かに進化してきた微生物の記憶の産物です。人類が行き着いた最果ての地、パタゴニアから酵母のDNAが我々のもとに帰ってくる、その旅路・冒険を想像する事は酒の肴としては悪くないでしょう。
参考URL:
https://www.kirin.co.jp/alcohol/beer/daigaku/HST/hst/no30/
https://www.nta.go.jp/about/organization/tokyo/sake/seminar/r5/2305/material.htm
https://www.pnas.org/post/journal-club/blonde-beers-may-owe-their-origins-patagonia
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1105430108
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