2017/03/20

高瀬舟における3つめのテーマについて

青空文庫で森鴎外の小説「高瀬舟」を読むことが出来る。→リンク

時は寛政、つまり1789年〜1801年。明治天皇の曽祖父にあたる光格天皇の御代という舞台設定である。遠島を申し付けられた罪人を京都から大阪まで運ぶ高瀬舟で、同心羽田庄兵衞は弟殺しの罪人という喜助という男の不思議な佇まいに引き寄せられる。肉親殺しの罪人のはずだが、どういうわけか涼やかで晴れやかに見える。不思議さに堪えきれなくなった庄兵衛はとうとう聞く

「喜助。お前何を思つてゐるのか。」

将軍は11代家斉。15歳だった家斉に代わり治世を行ったのが老中首座、白河楽翁候。白河藩主で名君の誉れ高く11代将軍候補であったとも言う8代将軍吉宗の孫松平定信であり、天明の大飢饉で傾いた財政を立て直す目的で、祖父吉宗の享保の改革にならい寛政の改革を行っている。松平定信は碩学(せきがく:ものしりな人)で朱子学(儒学)を重視した人。真面目すぎるが故に尊号一件事件など、明治維新につながる幕府と朝廷との軋轢の原因を作ってしまった人物でもある。

天明とは寛政の前の年号。寛政になる前年1788年には京都で歴史上最大の天明の大火が起きており御所を含めて広い範囲が消失している。主人公である喜助の職場があった西陣(御所の西側)も焼失したはずであり、むろん再建はされたとは思うけれども近くには住む場所はなかったと思う。北山は焼失していなかったはずであるから、兄弟で北山に住み、その辺りから通う、という設定は現実的である。高瀬舟にはそういう時代背景がある事を知っておくと良い。

この話の元は「翁草」にある「流人の話」であるとされているが、このような細かい背景の設定はない。当然これには作者の意図があると考えるべきだ。解説は森鴎外本人が「高瀬舟縁起」として書いている。

高瀬舟には2つのテーマ、「足るを知る」と「安楽死」とがあるとされている。

足るを知るという点について:日英同盟を背景にして1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が起きた機会に乗じて日本が中国に攻め入り1915年、21ヵ条の要求をした事に対しての政府批判である、という解釈があるそうだ。さて足るを知る、という概念は当時一般化していたのであろうか。森鴎外がドイツ留学した時期(1884〜1888年)は、ヨーロッパにおいて「際限ない成長と進歩」という価値観への疑問が沸き起こった時期と重なりあう。ニーチェが活躍したのもその時期で、彼の著作を読んだのかなあなどと思うと感慨深いものがある。(生田長江がニーチェの翻訳をする際に鴎外に教えを請うた、とある)従って森鴎外がこの思考に至ったことは自然であると言える。

安楽死について:森鴎外が高瀬舟縁起で言うところのユウタナジイ Euthanasie は安楽死の事で、当時は安楽死という言葉がまだなかったものと考えるけれど、ギリシャでは戦争において相手を苦しませぬために素早く殺すというような意味合いであったという。現代の安楽死という意味では、フランシス・ベーコンが17世紀に記述したのが最初だとされている。ヨーロッパで研鑽を積んだ森鴎外が「流人の話」を読んだ時、彼はユウタナジイを想起し死が多様であることを示そうと思っただろう。安楽死、という概念を知らなかった人々は多かったことが想像されるので、それはそれで意味あることである。

これらが良く言われる高瀬舟の解釈である。しかしそれだけであろうか、と思った。

森鴎外は知識ある人には「寛政の京都」という時代設定だけで喜助の過去に何があったのか、を想起させる人である。これほどの天才であるから、この短い小説の中に「知足」「安楽死」だけでなく「尊属殺人」に関しても何らかの問題提起があったと考えるべきではなかろうか、と思う。というのも、高瀬舟が発表された1916年から遡って8年前、1908年に明治刑法が制定されているのだが、明治刑法には殺人の他に尊属殺人の項が設けられ重い刑罰が科せられる事となったのである。その刑法の思想背景には朱子学があるとされ、森鴎外の言うオオトリテ(オーソリティー:権威)はそれを指すのではないか。(彼自身が脚気論争で権威の罠に嵌り害悪な存在となっていた事はご存知の通りで、大きなブーメランではある)

主人公の喜助の罪は尊属殺に相当する。当時の日本で新しく制定された法律によって尊属殺は問答無用で重罪、とすることに対して疑問を呈したのではないか、批判を込めたのではないかとも思える。朱子学を背景にしていた寛政の世と同じく朱子学を背景にする明治刑法とを結び付けぬわけにはいかないのである。

この尊属殺人に関して違憲判決が出るのは実に1973年であり、一定の結論が出るまでに65年もの時間がかかった。安楽死に関してはまだ日本では十分な議論がなされているとは言いがたい。高瀬舟は青空文庫で読めるようになったが、天才の問題提起の有効期限は死後50年を経てもまだ切れていない。

2017/03/02

続・医者に「精神的なものだ」と言われたら

医師側に要因がないかどうかを考える。

・自分の専門分野について異常がない、という説明は見落としが起こっていることがわからないので無意味。
ー鑑別診断を挙げ、それらをこういう根拠で否定した、という説明が非常に丁寧。
ー医師の質は均質ではない事を意識しておくこと。説明の記録が重要。
 (記憶は全く役に立たない)
・途中で症状経過を整理してくれる医師に出会えると幸せ。
ー状況を混乱させないためには、きちんとした記録が必要であるため。
 (そうした労をいとわない医師を大切に思うこと) 
・診療情報提供書が極めて重要で、中身のある情報のやり取りがあればなお良い。
ードクターショッピングを途中で止めてくれる意志のある先生に出会う事が大切。

今まで見た患者さんの病歴を振り返ると、必ずその中に一人以上親切な先生がおられるのだが患者が素通りしているケースが多いです。診断が滞った時に、その医師の元に戻ったら知恵がいただけるのではないか。

患者側に要因がないかどうかを考える。

医師が精神疾患に伴うものだ、と考えがちなケースは以下の通り。
・多彩な症状を訴え、要領を得ない
・症状が一貫しない、ないしは一貫していないと誤解されるような言い回し
・医師の治療になんら反応しない(全くフィードバックがない、「全然」というような言い回しを使う)
・気分が不安定でコミュニケーションが取りにくい
・偏った考えを持つ(難病不安、精神疾患を絶対に否定)

善意の第三者が必要なケースが多くあります。公平で理知的な家族や友人がいると良い。また、人間の記憶は実に曖昧で、しかも記憶の書き換えすら生じますので、「自分は今困難な状況にいる」と思ったらその時点から日記をつけるべきです。

精神科は終点ではないし、しかも一つではない。

たとえば病状が長引くと精神症状が出てくるスプルーのような病気もありますし、医師に言われた一言で傷ついてPTSDのような症状になっている人、消耗して睡眠障害や気分障害が認められるような人もいます。それがますます症状を複雑にすることがあります。
したがって、精神科に相談することで改善することは多くあります。その症状が精神疾患に伴うものであれ、そうでない場合であれ、精神科を受診することで恩恵を受けることがありますから患者自身がその可能性を否定してはいけません。
良く患者が言う言葉に「薬があわなかった」というものがありますが、それはどんな病気でもあり得ることで、薬に対する反応で病態を医師が把握しようとしてくれますから通院を一回でやめるのはもったいない。別の医師によるアプローチで軽快する場合もあります。

まとめ:気が急いてしょうがない精神状態は状況を悪化させてしまう。

不安や焦りは病気の診断にはノイズになってしまいます。
こういう状況に陥ってしまった方を見ていると、周囲で静かに支えてくれる方が多くはなく、不安を煽る一言を本人に言うような寄り添いの態度に欠ける方々の存在を感じます。インターネットにも不安を増幅させる言葉やネガティブな感情、根拠なく安心させようとする言葉が並んでいます。少なくとも不安を与えるものとは少し距離を取るほうが良いでしょう。