2023/05/04

Guilt and Confession

毎日大量の文章を書く割にはブログを更新していませんでした。「難しすぎる」と言われてしまうと反論が出来ませんが、年を取ると説教めいた内容になってしまいますし「つまらない」という意味なんだろうとは受けとめています。それでも伝えたい事はあります。グリーフケアとかアサーティブネスなど、人々が身につけるべき考え方のテクニックがあるのですが、その導入として罪悪感の問題は避けて通れないと思い、書いたものです。

「信頼できる人に心の中を伝えてほしい」という事が主題です。そして現代では精神科医のみならずプライマリ・ケア医が神父の代わりになるかもしれない。可能であれば心の中を文章や詩にしてほしい、という内容を書きました。

Guilt(罪悪感) and Confession(懺悔)

沈黙(サイレンス)という映画があって、遠藤周作さんの原作だと思うんだけれど原作は読んでいません。

アメイジングスパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)が主人公で、脇をクワイ・ガン・ジン(リーアム・ニーソン)と、カイロ・レン(アダム・ドライバー)が固めているので、ビジュアル的にも大変見ごたえがあります。

作品の中で、神父という存在が「信者の方々が懺悔する先」として描かれる場面があって、なるほどそれはそうかもしれないと思いながら見ていました。

台湾の天才IT担当大臣、オードリー・タン氏は月に1回カナダの精神科医とリモートでやり取りして心の整理をしているという話を家族から聞きました。精神のバランスを保つためには「告白の壁」みたいなものが天才にも当然必要なのよね、と深く納得したことがあります。それと沈黙の一場面がとても重なりました。

岸辺露伴は動かない、という作品の中にも天才岸辺露伴が、「この懺悔というシステムには興味がある、自分も懺悔をしてみたらなにか変わるのだろうか?」という発想で懺悔室に入る、というシーンがあります。(間違って神父の側に入ってしまい、驚くべき懺悔を聞くという風に話は展開しますので、露伴は懺悔しないのですが)

もちろん悩みがある人にとっては告白は意味がある事であろうけれど、オードリー・タン氏、あるいは岸辺露伴氏のような、悩みがないと人からは見える高度な知性・強靭な精神の持ち主であっても告白は当然意味があるだろうとは思われるのです。

自分の診察室に場所を移します。

特に高い知性を持つ患者さんほど多くの悩みを処理出来てしまい、むしろちょっとした体調の不良として感じているだけの場合が多いように思われ、それを悩みとは表現せずに、例えば「胃が痛くて」などと受診したりします。

もちろん注意深く除外診断をするのですが、こういう時我々のような専門家の直感は90%正しいとされ、初診時に答えをなんとなく持っています。そして重大な病気がなく、自分には聞き出すことが出来ない何かがあるなと考えた時「もしもあなたの中になにか矛盾らしきもの、あるいは解決困難な問題があるのでしたら、専門職に相談して何も損はない」という事を言ったりします。このぐらいの婉曲表現がわかり、ほとんどの問題を自己解決できてしまう人は非常に少ないわけですが。

それは要するに精神科にかかってみてはどうか、という意味です。

その「心に抱えているが明確には形にならない思い」は罪悪感であることが結構あると思います。罪悪感とはなんでしょうか。そして、その告白はどう意味があるのでしょうか。(心理学では恥と罪悪感は自己意識感情の一つとされ、1990年以後注目されているようです、マーケティング用語ではギルトフリーなるものがあります)

我々はなにも倫理にもとることをしたときにだけ罪悪感を感じるわけではありません。むしろ相手に対する反応としてそのような感情を持つことが多いかもしれません。

サバイバーズ・ギルト

マネー・ギルト

しかしこの情緒は自然発生しにくいと考えられます。人間は怒鳴られたり、モラハラなど言葉の暴力を受けたときに、被害を受けた自分には全く非がないにも関わらず罪悪感のようなものが刷り込まれてしまうのだと何かで読みました。このような攻撃を加える人々が多くいる以上、ギルトという感情の生成を完璧に避けるは不可能ですので、その対策方法を考えるのが上策でしょう。

この罪悪感という感情を回避するのには「日記を書く」事は大切で、それは自分は悪くないということをはっきりさせる効用があります。私は毎日たくさん文章を書きますが、物事が客観視できることによって「客観的に見て自分は悪くはないのだ」という事がはっきりしますから、嫌な事があっても刷り込みを回避できています。もちろん自省につながる事も多くあります。証拠を残す意味もあって一石二鳥だからぜひ日記を書きましょう、と言います。罪悪感回避のみならず癒やされる可能性すらあります。この文章の題名を「Guilt and Confession」としましたが、小説にはこのような解釈が出来るものがあって、トーマス・マンの作品は彼の悩みを昇華させたものだと論じた本があります。

しかし言語化というのは実に難しい事です。子供の場合は当然そうですし、読書量が少ない場合もそうです。だから誰にでも出来るかというとそうではないのです。

キリスト教にみられる懺悔:confessionというシステムの根っこには元来そういう思想(虐げられて、間違って罪悪感を持っている人々の救済)があるのではと思います。昔は今よりももっと理不尽で、言葉の暴力を受けた結果、全く悪くもないのに罪悪感を感じる人が多かったのではないか、しかも誰にも言えなかったのではないか。そうした人を救うためのシステムとして考え出されたのかも、などと思うのです。本当かどうかはわかりませんけれど、自分が教祖ならそういうシステムは作るんじゃないか。

人を赦しなさい、という教えも、人を赦す人だったら自分も赦すだろう、ということでやはり根っこには自分を責めない、という思想があるのではないか、と思います。

また、詩を書く、という解決の仕方もあるでしょう。日本には短歌や俳句など詩に親しみやすい環境が整っていますし。散文である日記とは違い、詩を書けばそれは芸術という事になります(ジョーゼフ・キャンベルは繰り返しそれを言いますし)から、もしも自分の気持ちを日記ではなくて西行のように詩にできればそれは昇華できたという事になるのでしょう。

「日本人はどう死ぬべきか」という本で、養老孟司さんは「芭蕉や西行の晩年の生き方が良い」と言っています。私が「西行になれ」と書いた上の文章は養老さんの本を読む前ですが不思議な一致です。自分は「詩を書いたら良い」という意味で書き、養老さんの言葉は「年寄は固執せずに芭蕉とか西行みたいに転々とするぐらいが良い」という意味ですが、芭蕉や西行のように心情を詩に出来ることと、晩年を固執せずに暮らしたこととは関連性があるんじゃないかしら、とは思うのです。

2022/09/25

ステレオタイプの形成〜色とジェンダー〜

既成概念、を英語で "Stereotypes" と言います。ステレオタイプ、は日本語にもなっています。

「既成概念」は認知の研究では「融通が効かない」「多様性を妨げる」「差別を助長する」などあまり良い印象のない言葉です。

ピンク=女の子、という関連付けもまた既成概念の一つです。ピンクそのものは魅力的な色であるにも関わらず、「ピンクが大好き!」と公言する時に、その既成概念が邪魔になる事もありますね。

こういう「既成概念」を心や脳でどう患者が扱っているのか、を医者はよく観察しています。そしてそれが病的な領域にあると判断すれば認知症と診断したりするのです。病的ではないまでも「決めつけ」は外来では溢れていますし、大声を出して文句を言う人々はたいてい既成概念の罠にはまっています。

よくある既成概念の例:

「お客様は神様だ」:三波春夫曰く。お客様が使う言葉では当然ない

「若い医者は未熟だ」:個々の実力と年齢を関係付けることは避けるべき

「消化器の事だから鵜川医院」:近所の医者に行く、が正解

こうした既成概念がどう人間に形成されていくのか、は経済や社会情勢、メディアの発達、宗教などと密接に関わっていて複雑な研究対象です。その形成についてざっと調べておくのは悪い事ではないでしょう。軽く調べてみましたが、日本語ではきちんと書いてある文章はない。ならば、と英語で検索をしてみました。

大抵いつも自分が行う事は、Google Scholarで年代別に主要論文を検索していくことです。1900年ぐらいからの文献が検索出来ますので、図書館に行って調べるほどの精度はないにせよ大変ありがたいサイトです。

Google Scholar に "Stereotypes"と入力して、年代別に並べます。するとその研究の変遷を見ることができます。研究対象としての中心は人種、それから性別だとわかります。

1930年よりも前に「人種とステレオタイプ」に関する論文を検索することはなかなかできません。人種による偏見問題の論文が多くなったその時期はちょうどナチスによるホロコーストが行われている時期と一致している事実は気になりました。実際、ナチスはメディアを大々的に使い人々に色々な偏見を刷り込んだ最初の例として挙げられますので、それは不思議ではないかもしれません。「何々をなくそう!」という声が学者から大きくなっている時には社会では逆の事がますます勢いづいて、全く抑止力がない、という事が多いのが問題ではあります。

"Gender Stereotypes" 「性別とステレオタイプ」という言葉が普通に使われだすのは1977年ぐらいからです。ではこの時代はどういう時代なのでしょうか。Genderというと1960年代には大きな動きがありましたからもっと論文があっても良いのに、1978年は遅すぎると思ったのです。しかし学術界はいまだに男女差別が強く残るぐらいなので動きが遅いのだ、と考えました。

初期の論文は子供に焦点を当てている事が多いので、玩具について見てみます。

玩具メーカー・マテル(バービー人形を1960年ごろに発売した米国最大の玩具メーカー)は製品がヒットしたものの1971年をピークに株価は低迷している時期です。この時代の論文は女の子は家庭に、などという既成概念を研究していますが、そうした傾向は洋服や玩具で決定づけられたとしています。ちょうどバービーが大ヒットしてひと段落したあたりで時代の反省をしているのでしょう。

日本ではどうでしょう。リカちゃんの発売は1967年。ゴレンジャーが1975年で、このときにはすでにモモレンジャーは登場しており、ある程度「女の子はピンク」は決定づけられていたようです。世界に広がっているのが見て取れます。

歴史の研究によれば、玩具によるジェンダーステレオタイプはGI.ジョーとかバービーが発売された1959年~1963年ぐらいに形成されたあとに、一度フェミニズムの台頭で1970年代にはニュートラルに戻った、としています。

しかし80年代から玩具市場が拡張しだすとユニセックスよりも男女別にしたほうが、という流れになったとされています。そのピークは2000年ごろのことだそうです。マテルの株価は1998年にピーク。その後下落し、2014年に上場来高値に近づきながらも上抜けていない状態ではあります。第二の波が終わって今は反省の時期に入っているのでしょうか。

同じ業界のハズプロ(モノポリー、Mr.ポテトヘッド、GIジョー、MTG)ですが、こちらは「女の子向け」という商品が少ないせいなのか、ボードゲームのおかげか、2018年まで株価は上昇していました。とはいえ時価総額はマテルに及びません。そもそも両者ともNASDAQ市場です。玩具は市場そのものは大きいわけではありません。しかし既成概念形成に与える影響は無視できないと思います。

玩具を中心に述べましたが、服、アクセサリーなどを軸に論じるパターンもあるのだと思います。ディズニーのキャラクターで論じられる事は多いです。こうした既成概念を産んだのが消費社会であることが原因だとすれば、プラスチックやCO2排出量、広告やメディアと関連付けて論ずることもできるかもしれません。

こうして調べた感想としては、既成概念は自然に生み出されたものというよりはマーケティングの結果なのだろうという事です。例えば人種に関する既成概念は、搾取や奴隷制を正当化するためのものでした。性別に関しても同じく搾取や市場拡大のためでした。

STEM教育、STEAM教育という教育法があり、過去に取り上げた事があるかもしれません。この教育では既成概念を形成しやすい環境を否定的に捉えています。当然の事なのですが、今の教育現場ではまだまだ古い概念が残っているかもしれません。

ピンク自体は美しい色です。日本の美しい様々な赤系の色を見るとホッとします。しかし既成概念が邪魔して、デザインに採用するというときには難しい色になってしまいました。AppleのPCを買う時にはGoldという色を選ぶことが出来ます。最近買ったMacBook Airの色はGoldです。しかし実質的にはPink Goldという色合いです。これは自分にとっては嬉しい誤算でしたが、Pinkと名付けるとマーケティングには逆効果と判断されて、Goldと名付けられているのだろうと思っています。

自分のかつての専門は内視鏡でした。世界の藤田、と言われた人が自分の大ボスに当たります。我々のチームは「手術衣がピンク」というのが割と業界では有名で、ピンクの手術衣を着ていると「あ、藤田の弟子だな」とわかります。藤田はなぜピンクを採用したのでしょうか。①目立つから、②テレビにうつったときに顔が明るく見えるから、という現実的な理由だったようです。もしも胃カメラや大腸内視鏡検査を受けるとき、医師がピンクの手術衣だったら、藤田の弟子なのだ、と思ってください。自分がこのボスについていこう、と思った理由は考えが既成概念に左右されずニュートラルであることが、その手術衣からもわかったからです。実際、常に最先端の考えで突き進んでいました。既成概念に捉われていない=クリエイティブ、という事です。

この絵は自分はPhotoshopで描いたもので、忘れましたが体内の構造をレタッチしたものです。頭の中には思いつかないようなテキスタイルが登場しますので、とても面白いなと思って10年以上前にかなりの枚数描きました。

さて、話を元に戻しましょう。

ピンクは元々は女の子の色だったわけではありません。キリスト教の影響があってマリアの処女性が青で強調されていたこともあり、女性には青が勧められ、男性はむしろ赤系のものを着る傾向があったそうです。1910年代のファッション雑誌では、女の子の洋服として青、男性はピンクが勧められているのです。

それ以前に子供の洋服は清潔を保つために漂白をする必要があり、男女問わず白が基調であった、というのが1900年ごろまでの傾向です。

1884年にNYで撮影されたとされるフランクリン・ルーズベルト(合衆国大統領)の幼少時の写真はジェンダーニュートラルです。


しかし第二次世界大戦が起きて、ピンクや赤い色を男性が着る事が少なくなりました。青系の色を男性が多く着るようになり、反対に1950年ごろには女性のファッションにおいて "Think Pink!" などのコピーが登場することとなりました。さらに1950年代の映画は女性=ピンク、という概念に大きな影響を及ぼしたようです。さらに1959年のバービー人形発売。

既成概念の変化というのはやはり大きな社会の変化を反映すると言えそうです。その後1970年代からは再びジェンダーニュートラルな動きはあるものの、全体的な傾向に変化はありません。既成概念化したのです。

では既成概念は悪であり否定されるべきなのでしょうか。実はそれは生物学的に妥当なのではないか、と考える人々もいます。

実際、女性=ピンクという概念は西洋社会を超えて瞬く間に世界に広がっています。それには生物学的な理由があるのではないか?と考える人がいるのは無理はありません。(自分はやはり経済活動のほうが因子としては大きいと思っていますが)

まず、男性と女性は色の感じ方には違いがあるようだ、との研究があります。

男性は狩猟をするので、動くものに対してより敏感に反応するように進化しているのではないか、という仮説から、自動車・鉄道などの乗り物好きを説明しようとしています。

女性には月経があり、子供を産む関係で、赤系の色に対して敏感に反応するのではないかという仮説があります。

学者は好き放題仮説を考えますが、将来脳の発達をシミュレーションできる時代になるまで、結論はお預けです。

ところで日本では、ピンクはいろいろな呼び名がありますね。

桜色、朱鷺色、珊瑚色、桃色、薄紅色、撫子色、薄紅梅、躑躅色、牡丹色、薔薇色などなど。

既成概念は発想を制限してしまいます。ピンク!と色が主張しすぎると、それ以外の色の出番は少なくなります。微妙な色の違いを様々な呼び名であらわした日本の文化は柔軟で、(それはそれでマーケティングの一環だったのかもしれませんが……)自分は素敵だなと思います。


参考:

Google Scholar

https://awomensthing.org/blog/pink-and-blue/

Pink and blue: The color of gender

https://www.smithsonianmag.com/arts-culture/when-did-girls-start-wearing-pink-1370097/

日本の伝統色