診断エラー学などと言われたりするが、あまり響きの良い言葉ではない。自分は大学院に入った時にQCという言葉で企業の方から実験手法とともに指導していただいた。
QCはQuality Controlの事で、1931年にベル研究所のウォルター・シューハートが記載。日本にはGHQが持ち込んだ概念とされている。
大学院での実験は、きちんとQCをするかしないかで精度保証が変化するのが当然であるから、定期的に基本的な実験を行ってその結果が予測どおりになるのかどうかを記録するのである。
当たり前で大切な事だが、昨今の論文捏造においてはそういう手順や記録が常識となっていない大学が結構あるらしいことに驚いたし、臨床の現場で行っているのか、となると、実例をあげるのが難しい。例えばマンモグラフィーの判定に関してはQCを行っていて偉いと思うけれど、それ以外の診断学で制度としてQCを行っているという例はあまりない。いったい医師の臨床能力をどう保証するのだろうか。
胃のバリウム検査で過伸展が萎縮性胃炎と判定されがちな問題は、診断エラー学に属する。企業が検診をしている事が多いのでQCと呼ぶべきかもしれない。エラーはむしろ歓迎すべきもので、例えば便潜血検査ではその陽性とされたことによって多くの患者が内視鏡を受け、良性の腺腫を切除することとなり、それが10年後の大腸がん罹患率を大きく変化させ寿命が伸びるわけであるから。
胃のバリウム検査で萎縮性胃炎と書かれる事は内視鏡を受けるチャンスであるから、はじめて指摘されたならば患者のデメリットはあまりない。ここで言うデメリットとしては時間をそのために使うことと、内視鏡検査の侵襲、あとはお金。しかし、ピロリ陰性、萎縮もないという人を発泡剤の過伸展により毎年萎縮性胃炎と誤って診断するならば、それはデメリットの大きいエラーであるから、是正すべきだ。しかしそういう改善が行われていない、という問題がある。
日本の医療にはまだ診断エラー学、あるいはQCが浸透していない。
自分は自分の診断エラーがあるという前提でそれを最小にするためにどういう基準を設けるべきかを常に考えてアップデートしている。
自分が診断エラーについて常々考えている事を患者に話すと3通りの反応がある。
1)きちんと理解してくれる人。この人は最初から心通じる人々で、むしろ関係ない話を延々としてしまう。
2)難しくてわからないけれど、了解です、安心した、という態度の人々。この方々は自分の事を信頼してくれているのはわかるので自分もリラックスできる。
3)ミスとかエラーがあるのは許せない、という人。これ昨今インターネットでこういう人が沸いているのを良く見るけれど、自分のそばにもいるのか、という感想。あらゆる場所でトラブルを起こしそうだし心配になるし、そもそも幸せではない事が多い感じがする。自分は四六時中緊張して診療にあたることになりちょっと苦手。
実際の例を挙げる。
上部内視鏡検査であるとQCに自分が使っている項目は、
①声帯の観察ができた。
②両梨状窩の観察ができた。
③患者のSaO2が上昇も低下もしなかった。
④患者の脈拍が一定の範囲におさまった。
⑤ECJで深呼吸をしてもらいきれいに観察が出来た。
⑥胃角がきちんと観察できた。
⑦十二指腸下行脚の観察ができた。
⑧乳頭部が観察できた。
⑨ある程度のスピードをキープして幽門を通過できた。
⑩ぶれずに写真が撮れた。
⑪粘液をきれいに洗うことが出来た。
⑫病変がある場合、遠中近の写真がきれいに撮れている。
⑬生検がきちんとできる。
⑭噴門部の観察がきちんとできる。
⑮空気の量が適切である。送気が多いときと少ない時両方の写真がある。
⑯ある程度粘膜に近づいた写真も撮れている。特に大弯。
⑰適切に狭帯域光観察、色素内視鏡検査が出来た。
などがある。
一つの症例の写真にケチを付けるのは簡単だが(カンファランスなど)、それはQCとは呼ばない。それぞれ何%達成しているのかを年次で比較することでQCは可能になる。
とても面倒な作業だが、確か数年前に大雑把にやってみて毎年少しずつ改善していたのであった。大腸も同じ感じ。そしてプラトーに達し「自分はこれ以上は上達しないな」とわかって、なかなかつらい。
QCのための検査、になるといけないので、この項目は普通は意識しない、あるいは第三者が決定すべきかもしれない。
大腸検査は挿入時間をQCに使っている人が多いが、むしろ憩室の記載率を比較することは簡単で有用だ。観察時間が8分以下の人は見落としが多いという海外の文献があるから注意してください。
工業製品や実験とは異なり、相手がいて成立するものであり、その影響を大きく受けるから評価は非常に難しいが、リアルワールドデータと称してその真似事がはじまってはいる。