2014/07/30

「理解」とは何か。

なんでもかんでも理解したいという欲求を持つ患者さんがいる。
「それはどうしてですか」が口癖だ。


基礎を知らない人を分かった気分にさせるには嘘のメタ知識に頼る方法が無難だ。
「あなたは高血圧だが、◯◯タイプだ」というのが典型例だ。
「ただの高血圧じゃない」+「◯◯タイプ」。ある程度知的欲求がある人々に響く言葉だ。
しかしその「◯◯タイプ」は全くの嘘かもしれないし、実際本当にいい加減な説明であることが多い。しかもだからといってどう違うか、どうすべきかなどの知識を一緒に身につけているわけでもない。診断根拠を患者に持たせないから信用できず、次の医療機関で検査のやり直しになることは当然で、それは患者の不満を生む。
テレビがそうだし、全国から患者を集めてクリニック経営している医療機関の診療内容をみるとその傾向がある。患者のアドヒアランスを上げるという良い面がある反面、「理解」の誤解が起きているような気もする。


どういう誤解かというと、インフォームドコンセントにおける「理解」を、医学の論理的な理解と履き違えるのだ。したがって、別の病気になった時に説明を受け、上記のような実に単純なメタ化が行われず少しむずかしい説明になって、それがわからないなと思った時になかなか納得しないし、どこがわからないかも説明が出来ない。そのために相当単純化して伝える必要が出てきてしまう。テレビだとか、上記のような医療機関は命とは関係ないところで議論をしているのが常であって(もちろんそういうビジネスモデルだ)多少の誤解があろうがあとで矛盾が出ようが差支えはない。しかし実際の医療では命が迫っている場合が多い。そういう事態にも関わらず「わからない、理解させろ」という気持ちに患者さんがなってしまうとすればそれは間違ったインフォームドコンセント感の弊害ではなかろうか、と思う。


「理解」を辞書で引くといくつかの意味がある。ひとつは「物事のしくみや状況,また,その意味するところなどを論理によって判断しわかること」であり、別に「相手の立場や気持ちをくみとること」という意味もある。医療現場における「理解」は双方を内包した深い言葉だ、という事を日々実感している。



2014/07/27

「必要か」という問い

「その検査(治療)は必要なんですか?」という問いを患者さんが良くするけれど、自分が逆の立場だったらその質問はしない。私は主語のない問いかけは極力しない。


私ならばこう言い換えると思う。「その検査(治療)は私にとってどのように有益なのですか?」と。


「必要」という言葉自体に、物事は神様か何かが決める事、のようなニュアンスを感じてしまうので、検査とか治療などという人生の中では最高に主体的でなければならないライフイベントを神様に決めてもらおうというような感覚には少し違和感を感じてしまう。むろんほとんどの人にはそういう言語感覚はなくて、ただ良く使われている言葉だからという理由でその質問をしているのかもしれないが。


検査(治療)の主体は自分だけれど利己的ではいけない、というのが難しい。なぜならば最も正しい答えの近くにいる医者との合意が必要であるし、自分勝手な判断をすると自分にとって不利益になるだけでなく、社会にとって不利益になる場合があるからだ。


実際には自分での判断は難しいので医師の意見を参考にする場合が多かろうけれど、「その検査(治療)が必要なんですか?」という問いに対する答えは非常に抽象的であるので、理解できない可能性がある。ガイドラインはその面倒な説明を端折るために用意されているけれど、理解を助けるものではない。そしてガイドラインはもともと不信感がある人にとっては意味をなさなかったりする。


観察していると、恐らく小さなトラブルの経験があろうという人が「必要か」という問いをするのは事実で、悲しく思う。トラブルが過去にある、あるいは自分では経験がなくともそういう経験を聞かされている、そういう人々の根には、非積極性がある。その気分を上手にほぐしていく、という稀有な才能をもった医療関係者あるいは一般人の人々がいて、自分は最大の敬意を払っている。

2014/07/23

ピロリ除菌で胃ポリープは消えるか

胃の前庭部(出口に近いほう)に過形成性ポリープがあったケースです。ピロリ菌を除菌しました。


これが二年経つとこうなりました。


ほぼ消失しています。
前庭部の過形成性ポリープは、ピロリ菌除菌では消失しない場合があります。前庭部の蠕動が非常に強い場合はその傾向があります。背景にびらんが多数あったり線状発赤が目立つ場合には蠕動が強いので、患者さんには「消えますよ」と説明してしまうとあとで「消えていないじゃないか」と患者さんの信頼を失う場合があります。消化器内科医は説明には慎重であるべきです。

一方でこういうポリープが出てきます。


胃底腺ポリープです。胃体上部大弯やや前壁よりです。胃底腺ポリープはピロリ菌陰性の胃粘膜における正常所見の一つと言って良いでしょう。

結論を申しますと、ピロリ菌除菌で過形成性ポリープ(胃腺窩上皮過形成性ポリープ)は消失する場合が多く、胃底腺ポリープは出現する場合があります。

2014/07/21

見立て、について(回答編1)



患者さんが、「眠れない」と受診をされました。
診断は、ウイルス感染症とし、4日ぐらいで軽快するのではないか、としました。
いったいどのように病歴を聞いたのでしょうか。




「眠れない」

「どうしてだろう」

「わからない」

「眠れない、って睡眠時間が短いということなんだろうか、寝付きが悪いという意味なんだろうか、それとも途中で起きてしまうという意味なんだろうか」

「途中で起きてしまう、かな」

「それはトイレで起きるんだろうか、眠りが浅いんだろうか」

「トイレかねえ」

「いつから?」

「2日前から」

「昼間眠くなる?」

「昼寝はするね」

「この2日間?」

「そう」

「おしっこするときにおしっこをする場所が痛いだろうか」

「痛くない」

「おしっこの量は多くなっているだろうか」

「行きたいんだけれど、ちょっとしか出ない」

「背中叩いてみるよ、どう?痛い?」

「痛くないねえ」

「おしっこ採って、熱計ろうか。血圧は137/80で、脈は80回か、ちょっといつもよりは高めで脈も速いか」

「おしっこ採ってきました」

「おしっこは、きれいだったねえ。熱は36.8度。平熱は?」

「36.4度ぐらいだねえ」

「診察させてくれる?この首どうした?」

「うん、なんか腫れてる気もするねえ、それとちょっと痛い」

「それはいつから?」

「2日前かな?」

「わかった。とすると、2日前から眠れなくて辛い、と。おしっこが頻回になっていると。少し血圧・脈拍・体温がいつもよりも高めで、のどが痛いんだね。それに腫れている。おしっこはきれいで膀胱炎ではないらしい。とすればウイルス感染症で頻尿になる事があるから今回はその可能性があって、あと2−3日で治ると思いますよ」

「あー、そんな気がする。じゃあ治るのかね」

「良くなりますよ。ところで風邪薬は眠くなるんだけどさあ、自分は風邪薬出すの好きじゃないんだけど、お薬なしでいい?」

「良いです良いです」

「塩水でうがいして下さい。調子が悪いなと思ったらまた見せてください」

「ありがとうございました」




感染症ではインターフェロンのようなサイトカインが放出されます。肝炎の時に使うインターフェロンでも頻尿の副作用がありますが、風邪の時にも頻尿を訴える人はおられます。ポリモーダル受容器にサイトカインが働いて閾値が低下したりする事があるそうで、そんなことが膀胱でおきるのでしょうね。風邪、頻尿で検索すると説明にもならない下らない説明をしているWebサイトが多いのですが、上記のような考え方が妥当でしょうね。

2014/07/16

見立て、について。

患者さんが、「眠れない」と受診をされました。

診断は、ウイルス感染症とし、4日ぐらいで軽快するのではないか、としました。

いったいどのように病歴を聞いたのでしょうか。



患者さんが、「他の病院で検査をしているが便秘の原因がわからない」と受診をされました。

私はある所見から、

「神経疾患ではないかと思うので、神経内科に紹介します」

と紹介状を書きました。

いったいどういう所見があったのでしょうか。



書き出してみると突拍子もない印象がありますが、

振り返ってみれば、あり得ること、なのです。

2014/07/10

一生飲まなくちゃいけないんですか

整腸剤(乳酸菌とかビフィズス菌とか酪酸菌などが主成分)を処方するときに「一生飲まなくちゃいけないんですか?」と心配する人は意外といる。

そして答えに困ってしまう。その質問がナンセンスである、という事を説明し、理解させることがまず大変だからだ。

「このお薬は一生飲んでくださいね」という言葉を医者が安売りしすぎたのがそもそもの原因じゃないか、と人にせいにしてみた。
昭和60年以前に乱発された言葉だろうか。現代でもまだこのセリフを間違って使う医者はいるらしい。

一生とは言わないまでも、相当長期間飲み続けなくちゃいけない病気はもちろんあるが、このセリフが乱発されたせいで色々弊害があるようだ。

例えば、
1)あんまり必要なさそうなのにずっと飲んでいる人々
がいるし、
2)俺は飲まないぞ
という事に快感を覚えてしまい(反権力という欲求を満足させる)薬をやめて適切にお薬を飲んでない人がいるし、
3)一生飲むなら飲まないほうがまし
という哲学的命題に取り組む人もいるし、
全くこちらとしては困ってしまう。

私自身は「一年先のことは一年先考える」というスタンスだし、色々なお薬を「〜まで使ったらもう一度評価」と説明する。
「再評価」は常になされるべきだからだし、そもそもあなたがた、それが出来るのは医者だけだから医者にかかるんです。
「薬だけ」という外来を絶対に絶対にしない、というと首をかしげる人が居る。
それは「治療について再評価をする」という医者の使命を全く理解していないし、そういう医者にも会ってないんでしょう。再評価と称して検査漬けにする医者が出てくるともっと面倒だけれど、どうも最近医療にはそういう傾向も出てきたから書いてしまう。

そして最近の事だけれど「一生飲まなくちゃいけないんですか?」という質問をした人は「薬だけくれ」と言うことに気づきました。その考え方がペアになっていることでピンと来たのですが、どうもこれらの人々は「ものを再評価する」という概念が欠けているのでしょう。

だとすれば、「一生飲まなくちゃいけないんですか」という問いに対する答えは簡単に出来る。

「いえ、一定期間経ったら評価をしなおしますので、一生ではありません」と答えておけば良いのだ。




2014/07/08

ICTが可能にすること〜曜日の無視〜

病院に勤務する医師が、生活のためにアルバイトをせざるを得ない状況があります。
「研究日」という呼び方をしたりしていますが、実質は違う。

ほとんどのアルバイトについて雇用者側は「曜日」で労働者(この場合は医師)を拘束します。それは現在の商習慣ではやむを得ない事でしょうが。

しかし、交代制加算というものが検討されてくるとまた変わってきます。
病院はこの交代制加算を導入して医師が当直したら翌日は休みというシフトを組みたい。しかし、翌日アルバイトがあれば実際には医師は過剰労働という事になります。
現在のままでは医師の交替勤務制は絵に描いた餅です。第一外来はどうするのですか。
外来もアルバイトも手術も給与もすべて曜日にしばられている事がせっかくの理念を歪ませてしまいます。

そこで周りは何をすべきかです。
今考えているのは完全不規則業務に患者を慣れさせる、という考え。
医師の勤務などはすべてコンピューターに管理を任せてしまいそれにしたがってカレンダーを作成する。曜日はとりあえず無視です。
大きな病院では主治医制は廃止。もともと主治医制と交替勤務制は相性が悪いのです。

私がいた大学病院でのことですが、総括医のようなものがおりました。担当医の上から診ているような医師です。総括医は誰もがなれるわけではなくて、カルテを見るとすぐに全体を把握できる、俯瞰能力の高い医師が選ばれます。患者は不安な事は担当医だけでなく総括医にも部長(教授)にも相談することが出来るシステムでした。これは非常にクレームが少なく、担当医も休みが取りやすく、実際の医療ミスも少ないという良いシステムでした。これに似た二人主治医制にすでに移行している病院も多くあります。

当院は二人主治医制ですが、「院長に」「邦夫医師に」と医師を指定する患者さんがいます。それは逆に監視されにくいというリスクを負うということを意識すべきでしょう。

曜日という概念は、能力に限界がある人間のためには便利ではありますが、リソースの最適な配分を考えるにあたっては邪魔です。
それを乗り越えるにはICTの活用が不可欠です。それに必要なインフラとしてはケータイ電話があればよく、あとはそれを使えるリテラシー教育さえ行えば良い。
それを草の根でやってみたいな、と思っているのが現在の私と言えます。

2014/07/01

おならについて

「おならは我慢しちゃいけませんよ」が私の父親の口癖であり、唯一の教育だったかもしれない。(「勉強しなさい」と言われたことはないので)

父は医者になってからしばらくの間アメリカに留学していたから、社会的作法がアメリカ的な側面があり、おならを我慢するな、もその一つだったと思う。他にはケチャップ大好きなどの特徴が彼にはある。

おならを我慢するなと言われても、日本の社会でそれを実践するのは少し困難だなあと思いつつ学生時代を過ごしていたけれど、心理的な縛りがなかっただけましだろう。

自分がアメリカに留学していた時のこと。おならが出てしまっても"Excuse me."と言えば終わり、という場面を何度か目にした。若い女性であってもそれを恥ずかしがる事はないのだ。なるほどこれは良い社会的作法だと実感できて、自分も「おならは我慢しちゃいけません」派になった。

おならに関して良く話すエピソードは2つ。

ひとつは”屁負比丘尼(へおいびくに)"の話。時代劇で高貴だったり裕福な家の若い女性に必ず尼さん風の女性が付き従っているけれど、この比丘尼が放屁や過失などを引き受ける役だったという事。それほどに放屁ははしたないこととされていたらしい事を示すエピソードとして。

もうひとつは禅宗の修行道場は音に大変厳しくて、下駄の音、食事の音も出すことはいけない。唯一うどんをすするときだけはOKらしいけれど、どうもトイレの音も駄目らしい。そこで音がしない排便や放屁の仕方を身につけるのであると禅宗のお坊さんが話しているのを伺ったことがある。

どちらも臭いに対しては寛容で、音に対しては敏感な、当時の様子がうかがい知れる。

「音がしなければOK」がもともとの解釈なのだろう。

ところが、日本ではおならがいじめの材料に使われたりするという問題がある。
いじめとは教育者でない人物が相手を教育に見せかけ無理強いしたり矯正しようとしたりすること、というような言われ方をする。一般的に「これがマナー」とされるような事象があると、それに反した人を教育者でない人々が「指導」をするというような風俗・習慣が人間社会にはあり、特に学校の中では容易にそれが起きやすい。例えば音がでないおならの場合ですら「おまえやっただろ」というような発言をする人物が登場しやすく、これがいじめにつながっていくかもしれないと恐れる子供たちは多い。

したがって学校ではおならが出来ない、うんちが出来ない、だからお腹がいたい。学校にいけない。そんな子供を見るたびに、マナーの拡大解釈を呪い、大人はちゃんとしろと憤り、自分の無力を悲しく思う。

トイレで大便をすることすらからかったりいじめの対象にするような残念な子供も未だにいるのだろう。そのような人物の方にこそ問題がある、ということをわからせるためには小さな頃から、「おならは恥ずかしくない」「うんちも恥ずかしくない」と教育するほうがよほど有意義だと思う。生理現象をマナーに組み込んでしまうことは有害ではなかろうか。

だいたい、「きたなーい」とか言っている子供に限って本当の清潔操作のことなどわかっていない。もちろん潔癖症の人も全然わかっていない。科学を学ばない、理解できないとこういう事態に簡単に陥ってしまうから教育は重要だと思うのだ。