同じく小林秀雄さんの「考えるヒント」の二番目のエッセイは「プラトンの『国家』」というタイトル。
プラトンの「国家」という著作の対話編はソクラテスと対する人々の対話という形がとられているのだけれども、これが議論ともディベートとも違う不思議な雰囲気をなしている。
現代では「対話」がおろそかにされてはいないか。医者という職業の人間はずいぶん偉そうにものをいう。「なんとかは治療するな」「いや治療しろ」などと自分の意見の応酬である。それは主張であって、議論でもディベートでもない。では医者と患者で議論やディベートは成立するのか、否。診察室での会話はこの「対話」という表現が一番しっくりと来る。
医学は絶対ではなくて常に疑問が沢山ある。そして一番たくさんの疑問を抱えているのは患者さんではなくて医者本人である。
対話らしい会話ができるだけでも良い時代になったと言えるかもしれない。
「はいお薬を出します」というような一方的な言葉に対して、
「お薬を使わずに治療は可能でしょうか」などという疑問を医師に投げかけることが、昔は出来たのだろうか。
そこからは対話がはじまる。
「なぜお薬を使わずにと思うのか」
「お薬は体に悪いと聞きました」
「『お薬』が体に悪いと主張している人がいることは知っている。しかしその『お薬』が今回の『お薬』と同じものとは限らぬし、そもそも『悪い』とはいったいどういう事なのか、それすらも人により違うのだ。あなたはお薬が体に悪いという主張を聞いた時にその具体例についてひとつひとつ理解する必要がある。しかしそれを理解していない現状ではある程度は専門家にその判断を委ねる必要が出てくるのではないかと思う。それが理解はできますか?」
「それはわかります」
一般に「薬が体に悪い」という主張はまやかしだ。しかし副作用が起きる可能性からは人間は逃れられない。
納得してリスクをとるか、とらないか、それは選択である。
医師にどこまで委ねるか、というのも選択である。
つまり医療を受けるというのは選択なのだ、という事が理解できれば一応対話は終了とする。
薬を飲むか飲まないか、という議論を戦わせるわけではない。
対話にはどういう意味があるのか。
ソクラテスのやり方は基本的には相手の主張に疑問を呈することからはじまる。
「君は疑いで人をしびれさせる電気ウナギににている」と言われるとソクラテスは
「たしかにそうだ、しかし電気ウナギは自分で自分をしびれさせているからこそ人をしびれさせることができる。私がそうするのは私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と答える。
人間は一度死ぬと疑問をすっかり忘れてしまい、また生まれ変わってまた人生をやり直すわけだけれども、ソクラテスは少しだけ前世を覚えている、と暗喩しているのだと小林秀雄は書いているけれど、それはプラトンが著書で「人間には前世があることは明らかだ」と示していることを受けての事らしい。小林秀雄のように輪廻を持ち出さずとも、疑問を忘れない、というのは大切な事だという事は自分にはよく理解ができる。
私の知り合いでこのソクラテスを地で行く先生がおられるのだけれど、しばしばその医院の患者さんが当院に迷いネコのように来院される。要するに疑問が解決しないので来ました、というのだ。いやはや。私はその先生との対話を楽しむべきだ、と思うのだけれども。
ただ、医者から疑問ばかり発せられてはついていけない人が多いのは当然だから、先に私が考えに考え抜いて普段から自分の解釈なり、妥協点なりを用意してはいる。いわゆる「テンプレ」っていうものだ。不本意だけれど対話に疲れちゃうような人には「テンプレ」をお持ち帰りしていただいている。
一方インターネット(SNSなど)は対話が行いにくいメディアだ。(一見対話をしているようだけれども)
何と言っても会話よりも反応速度が遅いし取り消せない。これは良いようでいて、主張のゆらぎが少なくなる、もちろんゆらぐ人もいるのだが、そのゆらぎを楽しまずに揚げ足をとることに使う狡猾な人間がいるために全く対話にはならないのだ。(したがって炎上しやすい)これは勿体無いことかもしれぬ。
ソクラテスの洞窟の比喩で示されるように真実は我々には見えない。見えないなりに対話をもって疑問を少し残しておくこと。それこそ人間らしい行為であるし人生の楽しみだ。インターネットにはまだまだその力は足りないように思う。
虎は死して皮を残すというように、発見された知識は後世に残っても、多くの疑問は記録されずに失われてしまう。いろいろなアイディアが再発明されるそもそもの根源がそこにあるように思うが、対話はその中では大きな役割を果たすと思う。
人間が人工知能と対話をするようになり、彼らがあらゆる疑問を決して忘れないとしたら……もしかしたら人間のありようを少し変えるのかもしれないが、むしろつまらないかもしれない。
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