川崎の岡本太郎美術館に行きましたが、すばらしい展示内容でした。様々な書籍が自由に読むことが出来るのもうれしかった。芸術家には蒐集家が多いとの印象を持っていますが、残念ながら彼のそれは事情により散逸している様子。それでも研究が進むと、本人すら意識していなかったかもしれぬ深みが作品に加えられ、素人に理解しやすくなるのが良い点です。
展示物の本の中に瀬戸内寂聴氏、梅原猛氏の対談(恐らく10年以上前の)がありまして、彼等は晩年の岡本太郎氏をあまり評価せず、若いころの複雑な彼を評価しているふしがありました。(晩年の彼は単純で「子供のような」と)しかしその場にいたら私はその意見に異を唱えたかも知れません。彼等からすると、完成された岡本太郎氏はいかにもステレオタイプ的な岡本太郎氏であり理解しやすく、見てはいられないという事なのかも知れませんが、それはメタ化の完成形でもあります。現在の瀬戸内寂聴氏がまさに瀬戸内寂聴氏であるのと同様に。
メタ化と対称の位置に存在するのは、宗教学とか民俗学とかだと思います。
言語というのはもっともメタ化しにくい対称で、私は苦手です。
宗教学や民俗学を極めた人には語学の天才が多いのも頷ける話です。岡本太郎に影響を与えたとされる宗教学者ミルチャ・エリアーデも数々の言語を使いこなしたという事でした。宗教を研究するにはそういう才能が必要なのです。岡本太郎が彼に惹かれたのは自分の対極に位置したからかも知れません。関係ないですが私は宮本常一さん(民俗学者)が大好きなのです。宮本さんも言葉に関しての天才で、万葉集の数万句を諳んじていたとされています。
岡本太郎さんが絵を描くときに、養女の敏子さんが「そこは赤」などと色を指示して描いていく、というようなエピソードを読んだときには、アンディ・ウォーホルさんと同じじゃないか、と思いました。確か彼も来客に絵を描かせたんでしたっけ。
そういう事を考えさせてくれる場所はなかなかありません。ゆったりとした時間が流れている生田緑地にふさわしい美術館だと思いました。
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