2015/04/28

耳学問、見取り稽古、ハンズオン

エキスパートどうしで会話しているときには、耳学問には「関係ないと思っていた知識同士をつなげる」働きがあると良く感じているので非常に好んでいる。

しかし、知識のない相手(患者や学生)ではそうはいかず、そのために間違った知識をもったまま歪んだ意見を持つものも残念ながら多い。レメディーや、自然、天然、漢方、薬は嫌、検査は嫌、あるいは特定の医師の名前、そういったキーワードを話す人の中にはそういう芽があるのではないか、と警戒しながら話さねばならぬから面倒くさい。(実際には話すのはやめて筆談にしてしまう。聞き間違いは誤解の半分以下とわかってはいるのだけれど、それでもましだと思うから)

私自身は記憶力にどうも特別なものがあった(過去形)らしく、それは瞬間記憶ではないけれども、「その時に感じたほんの少しの矛盾を忘れない」と言った類の記憶力であったので学生時代の実習というのはまことに良く身についており、その時に指導医が話したひとつひとつの意味があとになって良くわかる、という事を経験したのであった。その中には少なからず自分の聞き間違いだったのだ、と思われることもあるのです。

私は医師になってから8年間、内視鏡は触らずにずっと見学(見取り稽古)だけをしていた。通常ならば自分でやってみたくて気が狂ってしまうのかもしれないけれども、幸い自分はそれほど内視鏡に愛着があるわけではなかったし、手先が器用なことに関しては自信があって持てばうまくなるのはわかっていたし、もともと体が弱くて体育などは見学することが多かったからそういう経験には慣れていてそれで良かったのだ。その裏に内視鏡黎明期の熱狂を幼少時(父と叔父が東大分院だから)に体験し、完全に「乗り遅れた」との自覚もあったためやや冷めていた部分もあるかもしれない。むろんその当時、ESDに熱狂していた先生方が今は内視鏡界をリードしているわけで、なるほど学問とはそういう熱い思いが根底に流れているべきだと思っている。つまり自分のように冷めた人間はクロニクラー(観察者、記録者)向きなのだろう。今もほぼ診断だけをしている。

見取り稽古の期間が長すぎたため、自分は「見ればわかるだろう」と思いが少し強すぎるようだ。例えばお腹にエコーを塗るときの始点は一定であり、場所も決まっているという事は2回見れば理解し、3回見れば確信するだろうと思うわけだ。私の場合には指導者の動作のうち、「ゆるがないもの」「ややぶれるもの」「まったく規則性のないもの」とを分類し、さらに指導者数人の動作を統合して何が大切なのか、を選択していく、という当たり前のやり方をする。なので自分を見学し、次にハンズオンで学生がどのように動いてくれるのか、というのは多少楽しみにしている。というのは自分の影響がどの程度あるか、で他の指導者のやり方が想像できるからだ。これは相手が優秀な生徒である場合にのみ通用する話だけれど。

8年の見取り稽古の結果良かった事は、学んだことを言葉にできる、という事である。良い解説が出来るからハンズオンにおいてはまあまあ良い指導をする。しかしながら、見取り稽古というのは自分で発見する楽しみがある。何もかも教わってしまって、発見の楽しみを学生から奪ってはならぬ、(だって自分で規則性を発見することこそ楽しいものだ)という思いから、最初からすべてを教えるという事はしない。理解のぶれ、が新しい発見や手技を産むこともあるからある程度あいまいにすべきだとも思う。

ハンズオンはラーニングカーブが急峻である。したがって知識を手技が追い越して危険に陥るということがしばしば生じるのが欠点である。見取り稽古が長かった自分は十分な医学的知識を身に着ける余裕があったとも言える。昨今、学生にせよ、研修医にせよ、「早く上手くなりたい」との思いを良く口にするようだけれど、患者さんの事を考えれば、必死で知識を身に着けなければ危険だ、という事に気付かねばならぬ。それこそ、自ら気付かねばならぬことである。

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