2026/02/01

垂直方向の冒険者たち

高層ビル登頂(ビルダリング)の歴史、技術、および社会的意義

「馬鹿と煙は高いところへ上る」とは江戸時代から使われている言葉らしいですが、欧米でも同じ頃から、建築物があればどうしても登りたくなる一群がいたようです。

「ビルダリング(buildering)」という用語があります。人工構造物の登攀行為を指す言葉として、19世紀末から20世紀初頭にかけて確立されました。ケンブリッジ大学の建物を登ったようですね。

この言葉は「建物(building)」と、岩場での低高度登攀を指す「ボルダリング(bouldering)」を組み合わせた「かば

ん語」であり、元々は伝統的なア
ルピニズムの精神を都市という人工の山岳へと転置させたものでした。

1. 「そこに建物があるから」

「ビルダリング」という用語は、19世紀末から20世紀初頭にかけて確立されました。「建物(building)」と、岩場での低高度登攀を指す「ボルダリング(bouldering)」を組み合わせたかばん語であり、元々は伝統的なアルピニズムの精神を都市という人工の山岳へと転置させたものでした。

その本質とは、既存の建築構造を本来の目的外の用途、すなわち「登攀の対象」として再定義することにあります。山も信仰の対象だったりするわけで、登攀するのは本来の存在意義ではありません。ビルダリングは、ロープや保護具を使用せずに行われる場合、極めて高い致死的なリスクを伴いますが、挑戦者にとっては、建築物の意匠や構造を詳細に分析し、物理的な摩擦と重力の法則の限界に挑む技術的な営みなのです。


2. 「ただし罰せられる」というセット・パフォーマンス

この行為が一般的なスポーツと決定的に異なるのは、ゴールが単なる頂上ではなく、「登頂後の公権力による拘束」までを含んだ、ある種の社会的なセット・パフォーマンスとして成立している点です。

ケンブリッジ大学を登ったことがばれた若者もそうでしょうし、後述するようにニューヨークで禁止されたのは、これが見世物として大流行して死者が多発したからです。本質的には「危険で命を顧みない行為」であるため、法的な境界線を越えることは避けられません。

特に著名なアラン・ロベールの活動に見られるように、結末としての「留置場行き」は、都市のルールを逆説的に再確認する行為です。その逮捕は、自身の登攀が「現実の都市」というルールに縛られた空間で行われたことを証明する儀式的な意味合いを帯びています。

用語に見る「垂直への衝動」の変遷

  • ビルダリング (Buildering):建物を利用したボルダリング。一般的な総称であり、スポーツ的側面が強い。

  • アーバン・クライミング (Urban Climbing):都市全体をフィールドとする登攀。自由度の高いゲリラ的な活動。

  • ステゴフィリー (Stegophily):屋根や高所を愛好する行為。建築愛好的、あるいは夜間の隠密行動。

  • ルーフトッピング (Rooftopping):屋上での撮影を主目的とする行為。ソーシャルメディアでの視覚的衝撃を重視。

  • ストラクチャリング (Structuring):橋梁などの人工構造物の登攀。主に米国での呼称。


3. 歴史的起源:ケンブリッジの夜と「ステゴフィリー」

高層ビル登頂の根源は、19世紀末の英国におけるアカデミックな反抗心にまで遡ります。1895年、著名なアルピニストであるジョフリー・ウィンスロップ・ヤングは、ケンブリッジ大学の学生たちが夜な夜な校舎をよじ登っている事実に着目し、初めて体系的に文書化しました。

1899年に出版された『トリニティ・カレッジ屋根登りガイド』は、重厚なゴシック建築を登山ルートとしてマッピングした記念碑的な著作です。当時の厳格な規律の下で、夜の静寂の中で尖塔や壁を登ることは、既成の権威に対する静かな反抗の象徴でした。彼らは「ステゴフィリスト(屋根愛好家)」を自称し、ゴム底の布靴を履き、ロープを使わずに垂直な世界へと挑む知的なゲームを楽しんでいたのです。


4. 興行としての登頂:「ヒューマン・フライ」の時代

20世紀初頭、米国ではビル登頂は「ヒューマン・フライ(人間バエ)」と呼ばれるパフォーマーによる大衆興行へと変貌しました。ハリー・H・ガーディナーのようなクライマーは、日常着で摩天楼をよじ登り、大衆を熱狂させました。


しかし、この時代は悲劇とも隣り合わせでした。安全策を講じない無謀な登攀は多くの死者を出したのです。

  • 死を呼ぶパフォーマンス: 1923年、無声映画のプロモーション中にハリー・F・ヤングが転落死したことなどをきっかけに、ニューヨーク市当局はビルダリングを厳格に禁止しました。

  • 「見世物」としての終焉: 公衆の面前での「死のスペクタクル」を抑止するため、法的な境界線が引かれたのです。ビルダリングはスポーツではなく、本質的に「危険で命を顧みない行為」として社会から排斥されました。


5. 防災への問いかけ:MGMグランド火災とダン・グッドウィン

ビルを登ることが禁止されていることは、逆に政治的パフォーマンス足り得ます。登頂が単なるスタントではなく、「社会的な義憤」から生まれた時代もありました。

1980年11月21日、ラスベガスのMGMグランド・ホテルで発生した大規模火災は、85名(あるいは87名)の犠牲者を出す惨事となりました。消防署のはしご車は9階までしか届かず、高層階に取り残された人々は救助の術を失いました。

この悲劇を目の当たりにし、強い衝撃を受けたのがダン・グッドウィン(Spider Dan)です。

  • 「スパイダーダン」の誕生: グッドウィンは、既存の消防設備では超高層ビルの火災に対応できないことを証明するため、あえてビルを登ることを選びました。

  • シアーズ・タワーへの挑戦: 1981年、シカゴのシアーズ・タワーに挑んだ際、消防局による放水や斧での妨害を受けながらも7時間、彼は登り続けました。

  • 命を救うための登攀: 彼の活動は、高層階の救助ケーブルを渡すための特殊チーム創設を提言するなど、極めて建設的かつ政治的な目的を持っていたのです。


6. 現代の象徴:アラン・ロベールの哲学と「エッジワーク」

現代における高層ビル登頂は、アラン・ロベールの存在抜きには語れません。

彼は1982年(20歳)に二度の深刻な転落事故(15m)を経験し、医師から「身体障害66%、慢性的なめまい」を宣告されながらも、世界中の超高層ビルを素手で登り続けています。

アラン・ロベールの特異性

  • 登攀スタイル:フリーソロ(素手、クライミングシューズ、チョークのみ)。安全装置を一切使用しない。

  • 思想的背景:「リスクは生きている証である」。環境問題や平和を訴えるアクティビズムの側面も持つ。

  • 法的結末:170回以上の逮捕歴。登頂後の逮捕をパフォーマンスの一部として受容。

彼にとっての登攀は、管理社会における究極の自由の表現です。警察との追跡劇すら「警官と泥棒」の遊びであり、逮捕は社会システムとの対峙を完了させるための不可欠な**「終止符」**なのです。


7. 物理的考察:摩擦の科学と建築の「隙」

ビルダリングを技術的に見れば、それは表面材質とクライマーの皮膚の間で発生する摩擦力の限界を管理する行為です。物理学的には、最大摩擦力Fは摩擦係数ミューと垂直抗力N によって定義されます。

現代のガラス・カーテンウォールのビルではミューが極めて低いため、素手での保持は物理的に不可能に近いですが、クライマーはパネル間のわずかな隙間(ジョイント)や窓枠(マリオン)の突起を利用します。

外装材と技術的対応

  • 石灰岩・砂岩:摩擦係数が高くエッジが豊富。伝統的な保持が可能。

  • 強化ガラス:極めて滑らか。隙間への指の挿入や吸盤の使用が必要。

  • アルミニウム製リブ:規則的な突起を提供し、梯子のように利用可能。

レンゾ・ピアノ設計のニューヨーク・タイムズ・ビルは、意匠としてのスラットが「巨大な梯子」として機能してしまい、ロベールに「難易度1」と言わしめました。これは現代建築における「セキュリティ上の脆弱性(クライミング・テンプテーション)」という新たな議論を生んでいます。


8. 日本におけるビルダリングと法的な境界線

日本で最も象徴的な事件は、1998年のアラン・ロベールによる新宿センタービル登頂です。約40分で素手で登り切った彼は、屋上で待っていた警察官に建造物侵入の現行犯で逮捕されました。日本では主に以下の法的枠組みが境界線となります。

  • 建造物侵入罪(刑法130条):管理者の意思に反する立ち入り。3年以下の懲役または10万円以下の罰金。

  • 軽犯罪法:入ることを禁じられた場所への立ち入り。

また、地震大国である日本のビルには「免震・制震構造」が採用されており、これらが建物に与える「揺れ(遊び)」は、クライマーにとって予期せぬ転落リスクとなり得ます。


9. 承認欲求という名の「垂直ポルノ」

2010年頃から、ビルダリングは「ルーフトッピング」という新たな、そしてより過激なサブカルチャーへと変容しました。これは登頂の技術よりも、屋上のエッジでのスリルをSNSで共有することを主目的とします。

現代はその意味が「承認欲求」へと変化し、SNSでの「映え」を求めて死亡する事故が定期的に起きています。呉永寧やレミ・ルシディの悲劇は、本来回避すべきリスクを「コンテンツ」として消費させる、ソーシャルメディア時代の危うい構造を浮き彫りにしました。こうした議論にはあえて触れずに、過激なスタントだけがメディアに登場し続けています。


10. Netflixが乗り出す「アドレナリン市場」

アレックス・オノルドさんによる2026年1月の台北101ライブ中継。日本ではほとんど報じられませんでしたが、600万人がライブで見たといいます。アレックス・オノルドさんはNetflixと共同で映像作品を残しているとはいえ、ライブ配信に関しては違和感を感じました。万一のために10秒のタイムラグがとられていた。(実際に落下した際にはその映像はキャンセルされる)とはいえ、「フリーソロ」ですら監督であるジミー・チンが「もう仕事はやめたい」と感じたほどのストレスを与える現場です。

私が感じた違和感の正体は、それが孤独なフリークライミングの精神から離れ、巨大な「アドレナリン市場」の開拓ツールに見えたからでしょう。

Netflixがこの「危険を見世物にする」興行に乗り出した背景には、冷徹な戦略が透けて見えます。

  • Warner買収との関係:CNNを切り離した827億ドル規模の巨大買収を経て、Netflixは「複雑な報道、ジャーナリズム」ではなく「本能的な興奮」に特化したメディアへと舵を切りました。

  • Red Bullへの対抗:極限体験の独占者であったRed Bullに対し、Netflixは世界3億人の会員基盤を使い、アドレナリンをサブスクリプションの燃料に変えようとしています。

  • ライブ配信の倫理:滑落のリスクに備え10秒のディレイを設けるなど、Netflixは責任を負う姿勢を見せますが、それは「死」を娯楽として消費する構造を肯定することでもあります。

アドレナリン市場の拡大。それはショート動画全盛の時代に、視聴者の注意力を繋ぎ止めるための「垂直ポルノ」の氾濫です。管理社会から逸脱するための「エッジワーク(edgework)」としての登攀が、巨大メディアの「商品」に成り下がっていないか。私たちは、その境界線を見極める必要があります。

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