2013/09/07

結果の時代

私が大学院時代に教わった手法ですが、コンピューターへの結果の入力方法について。

同じ結果を2名に入力させる。
結果が一致すればOK、不一致ならば差し戻す。

臨床研究には多額の研究費用がかかるという事でしたが、こういう手間がかかるならしょうがあるまいと納得していたのです。が、実際にはそういう場面に出くわしたことはまだない。

ところでそれではいけないわけで、人為的なミスが起きぬような方法を考えねばならない。各種モニターからの入力もすべて自動で行われるべき、という立場です。内視鏡におけるモニター類もすべてセンターコンソールに集中して画像とともに記録されるべき、と主張してきましたが全く無視されて現在に至ります。自分で開発できるのですが面倒ですし、しませんでした。

主観的な検査についてはMinimal Standard Terminologyで記述法が定義されていることが多いのですが、これがなかなか難物です。同じものの表現方法が何通りもある。

電子カルテは岐路に立たされています。オーダリング情報はしっかりと統一されている、しかし結果についてはわざとうやむやに記述されていた。これは色々な思惑があっての事だと理解します。しかしそれではいけない、という機運が出てきている。これは正常な事です。

以前、インシデントは自動に記述されるべき、と主張しましたが医療のアウトカムについても同様に自動で記述されるべき、と考える立場です。その代わり結果については一定の免責も規定されるべき、と思います。

未来学者のアルビン・トフラーが無用知識という概念を提唱していると坂井さんのブログで知りました。現代の法律はコンピューターが自然言語解析を用いて精査し、矛盾を指摘したり出来る時代にすでになっているかもしれない、などと思いました。法律の一部も一種、無用知識化している印象があるのです。

医療の記録は無用知識が最も多くなるだろう分野ですが、その中から矛盾を発見したり、法則性を発見するのはもはや人間ではなくてコンピューターなのかもしれないと思います。

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