Aという事象や概念がある場合、これを言語化して私は相手に伝えます。言語化というのは非常に高い能力が必要です。東京大学の文系でもトップクラスの人々や、東大模試で国語全国何位、という人々が選ぶ言葉は意味が厳密に規定され、「聞く人が聞けば誤解が少ない」ようにコントロールされています。しかしそれを理解できる人はあまり多くはないようです。幸い私は大学受験時に国語の成績だけは(理系の中では)トップクラスで、ある程度は得意だからわかるのかもしれません。わざと誤解しやすいように歪曲して伝える事も簡単で、それを利用して生業にする職業の人々もいるぐらいです。
さて、言語化されたAという事象。
正しく言葉を理解できる人は「事象Aが正しいかどうか」を考えることに集中できます。しかし正しく言葉を理解できない人々は「Aが正しいかどうか」以前にAを誤解している可能性があります。したがって聞いた情報が正しいかどうかを判断することが難しいのです。これは時に不幸です。とりあえず私を信じれば、医師が決して患者にデメリットがある提案はしない前提ですんなりと事が運ぶけれども、信じられない人は永久に抜け出せないデススパイラルにはまってしまう。
時々医療者が信じられないと受診する人がおられますが、それは2つに分けられ、後者の人々がいる。何かに文句をすぐに言う人にも後者がいる。言語が正しく理解できていないから、誤解の解消もとてもむずかしいのです。相互理解が不十分であっても、そうならぬよう予防しているのが「信用」とか「信頼」なのだと理解しています。人類の歴史上、コミュニケーションに難があるケースが多々有ったと思われ、必然的に生じた概念ではないか、と思います。
信頼を得るために嘘八百の言葉が並んでいるのが今までの世の中です。真実が隠蔽されている、と不安になる気持ちはわからないでもないのです。その背景には言語の理解不足がある。
たぶんビッグデータが活用されるようになると大きな嘘がつけなくなります。その代わり、100%の信頼など幻想だということもますます明らかになるはずです。もちろんコンピューターを騙す手口も開発されるでしょうが、今よりは真実がわかるようになります。
そういう時代になりますと、ますます言語を正しく理解する能力が必要になってくるのです。
がんばって勉強しようね、と若い人にいうのはそういう理由です。
そういう時代になりますと、ますます言語を正しく理解する能力が必要になってくるのです。
がんばって勉強しようね、と若い人にいうのはそういう理由です。
0 件のコメント:
コメントを投稿