「胃が痛いんです。この痛さがなんとか取れれば良いと思っている」
例えばこういう言い方をする人がいたりすると頭がいい人だと思う。
「胃が痛い」だとか「薬くれ」などの台詞のほうが頻度が高い。
痛いのが胃なのかどうかは本当はわからないのであるが、「薬をくれ」でもなく「痛みを取ってくれ」でもなく「取れれば良い」という表現は"by whom"が曖昧で、変な時間的な圧力を相手(この場合医者)には与えない。こういう表現ができるインテリジェンスの持ち主ならば「胃」が痛い事にことについても彼らなりの根拠があるだろうと判断するのである。
少し主観を離れたような言い方は、SNS*1かなにかで誰かに(あるいは自分に)向かってつぶやくような視点とでも言えるだろうか。
(察してくれ)とか(直接的な要求)などという、本来は会話とは言えない内容の会話をしている事が外来では多く、おそらく実社会で家族や友人同士よりも別の関係性のある人と話す事が多くなってしまった現在ではそれが普通となっている。しかしそれらと明らかに違う(独白的な、客観性のある)視点はSNSでは良く見られ、それが実社会でも見られるようになったように感じている。しかしこれはもしかしたら以前からあったのに気づいていなくて、情報を受け取る自分が変化して自覚するに至ったのかもしれないとも思う。
とはいえ、そういうときSNSで「こういう薬が良いですよ」などとコメントする人がいると、薬をとりあえず出しちゃう医者と同じだなと思って苦笑する。考えてないというか。SNS時代のコミュニケーションがわかってないというか。昔だったらそれも親切の一環だったのでしょうが。
SNSが従来のコミュニケーションと違うのは、その人の過去やプロフィール、あるいは会話法が見えている事が多く、情報が多いために、親友でなくても背景を想像しやすいという事である。もちろん今まで自分はSNSが普及していない時代から、初めて会った相手のそうした背景を言葉の端々から想像していくことを得意としていた。しかし特別なテクニックを用いなくとも相手の背景がわかるようになった今の時代には、今の時代のコミュニケーションがあるのだろう。
*1 SNS……ソーシャル・ネットワーキング・サービス:FacebookやTwitterなどインターネット上で個人と個人とがつながっていくサービスのこと。小さな社会をそこで形成しているが、その伝播範囲が広い(狭くもできるが)事が特徴。
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