2010/09/17

たぶんもうひとつ、ある

統計よりも「1人のストーリー」が有効な理由

という記事を読みました。

「1人のストーリー」が悲惨さを訴える「数字」よりも一人の人間に訴えかけるのは、「見える犠牲効果」(identifiable victim effect)と称する行動が理由だそうです。人間が慈善行為を施そうとするときには論理的かつ実利的な計算よりも、目の前の物事に対する同情がその根拠となりやすい事と同義だと言うのです。

人間は誰しも数字よりも実例が大好きで、これは医者も例外ではありません。

でも果たして実例が大好きな理由はそれが数字よりもより情緒に訴えかけるからだけなのでしょうか。私はそれだけではないと思うのです。

例えば上記の記事で実例としてあげられているチリの鉱山を例にとります。彼らを助けることと、パキスタンの水害で人々を救済することとは、いったいどう違うのでしょうか。私は、コストとリターンの問題に帰結するように思います。鉱山の人々を助けるために、様々な新しいテクノロジーが投入されます。そのコストと、得られる様々なデータや経験値、あるいは宣伝効果などのリターンを比較してみたときに、より小さな規模でそれが行われる方がリスクが小さくリターンが大きいと人間は考えるのかも知れないと思ったのです。自分が何か慈善を行ったときに、誰しも知らず知らずのうちにリターンを期待する。これが「1人のストーリー」を優先してしまう根源的な理由なのかも知れないと。

私が上部内視鏡検査を行ったとき、患者さん本人の利益を考えますと「また来年もお受けください」と言うのが親切かもしれません。しかし当院で胃癌がより沢山見つかるためには、ピロリ菌がいない人々の受診を恣意的に少なくする必要があります。したがって肉眼的に容易に見分けが付くピロリ菌陰性の人々には、内視鏡をあまり受けなくても良いのだという事を伝えております。それらの人々が食道癌になったりGISTやカルチノイドに罹患する可能性はゼロではもちろんないのですが、それでも期待値を計算すれば私の指導が正しいのです。罹患率が一桁違う疾患ですので、現時点では胃癌にフォーカスするのが正しいのです。誰にでも「毎年」というのは、とうてい論理的とは言えません。それは経済です。

リソースが足りない社会では、この論理性がかなり重要です。
目の前の命を全力でなんとかするというのは、確かに小説的ではありますが、材料の在庫なども冷静に計算しながらリソースを最適に分配(節約することではない)できるかどうかが優れた医師の第一条件であろうと思いますし、若い先生にはその感覚を養って欲しいと思うのです。

それからもうひとつ、
上の記事では「1人1人を特定できないほど多くの被害者が出ているときにこそ、われわれは余計に思いやりの心を働かせる必要がある」と述べているのですが、例えば自分の慈善が他の人々のそれと相まってどのように役立っているかフィードバックするシステムがあれば、わざわざ難しい事を教える必要が無くなるでしょう。
私は大きな災害により大きな慈善が集まらないのは「報道が、災害の規模の大きさばかりを取り上げ、個人レベルの悲劇を伝えないのが原因」という考えは、悲惨さばかりを訴えて鬱々のなっているこの国の報道を見るに賛成が出来ないのです。

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