当院のトナリは日比多神社という子宝安産祈願をする神社なので、お参りのついでにいらっしゃる方もおられますが、市内にはいくつか同じ名前の神社がありますので、混同されることが多いようです。
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今日バスに乗っていました。バスっていうのは両側につり革につかままっている人がいたら、あと一人通るのがやっとの隙間しかありません。ですからバス停で止まるたびに、通れるようによける必要があります。
たいてい毎日うまく行くわけです。
でも、今日はうまくいかなかったのです。
●の男性が一カ所からどうしても動かない。
彼にしては「動けない」のだと思います。左下の図をみてください。
彼のとなりの男性(○)が気付いて一歩下がれば良かったのかも知れません。しかしとなりの男性が動けない状況に気づけなかった。
彼のとなりのとなりの方が出たいのに出られない。
人はとなりは見られるが、となりのとなりは見られない…
たった一歩下がるだけで皆楽に通れたかも知れないのに、となりのとなりがどうなっているかまで、気づかない。そのためにバスの中ではなにやら怪しい雰囲気で押し合いへし合い。
私は身体が細いので、そのあと上手に通り抜けましたけれど、後ろのほうから眺めていて「みんながんばれ~」って思いました。
ちょうどこんな状況になっているとき、頭の中に、
「となりのとなり」っていう言葉が浮かんできて頭から離れようとしない。
「となりの芝生は青く見える」って言うけど、
「となりのとなりはどうなのよ」って。
じゃあ、「となりのとなりのとなりは?」って。
これ、となりが無限になると公衆衛生って事になるんですね。
あ、医学では。
無限とはいかなくても例えばある人の胃が赤い。さっき見た胃より赤いかな。その前の胃とは同じくらいかな。・・・・それを続けると胃カメラのような主観的な検査であっても客観性が出てくるような「気がする」
「となりのとなりのトトロ」だったら、めちゃくちゃ客観的にトトロを見られるかも知れない、とか。
「となりのとなりのとなりのとなりのトトロ」くらいだったら、私にも会えるかも知れない、とか。
「となりのとなりのとなりのとなりのとなりのお姉さん」だったら、それはすっかり他人だし。
色々思いまして。非常に有意義だった。
客観性を失って、困っておられる患者さんは多いと思うんです。大抵はごく身近なところと比較して良くない、と落ち込んでいたりする。そういうときにとなりのとなりが見えるようになれば良いなあ、と思ってあれこれお話することが多いわけです。
Twitterってあるじゃないですか。私は、T0NARIなんですけども。
この中に、RTってあるんですね。Retweetっていうのかな。誰かの発言を引用するっていうマークです。これは誰かが引用した誰かの発言って事で、それを見ても「へー」ぐらいで、それほど心に衝撃を受けない。
これって「となりのとなり」なんですね。
となりはうらやましいけど、となりのとなりだったらうらやましくないし、何言われても悔しくないや、みたいな。
そういうゆるいコミュニケーションツールなんじゃないかって。
思いますね。悪くない。
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