医療は茶道のように儀式的で有る方が、患者は安心するかもしれない。
数年前学生実習で来院したM6(医学部六年)の学生が院長の行なっている上部内視鏡検査を見て、「まるで宗教儀式のようだ」と形容し、とても腑に落ちたのです。
確かにどのような患者を相手にした検査であっても、足の運び、内視鏡の持ち方、ルブリケート(潤滑剤)を塗る作法から、スイッチを押す動作まですべて、全く同じリズムで行われるさまは、儀式と言って差し支えないかもしれません。
ある日は、7例ほどあったすべての検査が1分の狂いもなく同じ時間で終了しており感心したものです。(ちょっとあり得ないです)
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データベースにはこのような記録が残っていました。
一流の定義が、質が高い事のみならず均質である事だ(私は常々これを言っています)とすれば、「様式」は大変に重要な事かもしれません。
さて、私は自らを一流とは称していません。なぜならば、質が高いことを目指すが決して均質ではないからです。理由は何か。私の最大の特徴は「変化に強い」「例外に強い」であるのですが、反面自由すぎる事が欠点です。毎回何か違うことをしてしまう。特に検査においては様式美には程遠いもので、毎日反省ばかりです。スポーツにおいてもある程度のレベルに到達すると、癖を無くし、無駄を省いてタイムを伸ばすという事を良く行います。私もそうなりたいと思いますが、まだ自らの行動を儀式化出来ていない。
均一な検査は患者に安心をもたらすでしょう。達人の検査ほどワン・パターンで簡単そうに見えるのは当然かもしれません。
自由と様式は相反する価値では決してないと思います。茶道を学んだ事がないのでわからないのですが、突き詰めていけば、いつかは高みに到達することが出来るのでしょうか。
これを集団で行うことができた時に、その医療機関は一流だと言われるのでしょう。
注射一本、採血の方法のような細かい方法まで、医療従事者間で意思統一が行われ、均一な医療が提供された時、患者は戸惑いがなくなり安心するのでしょう。
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