
この表紙は3DプリントされたBarabási-Albertモデルです。
近年、脳の全機能をシミュレーションする「人工脳」の構築が現実的なゴールとして語られるようになり、競争が行われています。そして脳内の配線構造をどう模倣するかが重要な課題となっています。従来、脳の配線は「距離の最小化(Steiner Tree)」、つまり信号の移動距離を最短にするという経済合理性に従って設計されていると信じられてきました。 半導体設計もそうです。
ところが、実際のコネクトーム(神経回路地図)を高精度な3Dで解析してみると、配線は必ずしも最短距離を通らず、一見すると非効率に迂回したり、奇妙な角度で分岐したりしていることが明らかになりました。
この謎を解く鍵として彼らが持ち出したのが、物理学の「超弦理論(ストリング理論)」でした。 研究チームは、ニューロンを単なる抽象的な「線」としてではなく、太さを持った物理的な「管(チューブ)」として捉え直しました。そして、南部・後藤アクション(Nambu-Goto action)と呼ばれる、弦理論で「時空の面積」を最小化するために使われる数学的枠組みを適用したのです。 (この計算は複雑で、コンピューターが必要です)その結果、驚くべき事実が判明しました。脳のネットワークが最適化していたのは「長さ」ではなく、チューブの「総表面積」だったのです。
特に興味深いのは、3次元空間で表面積を最小化しようとすると、親コードに対して90度の角度で枝が生える「直交分岐(Orthogonal Sprouting)」が、エネルギー的に安定な解として現れるという点です。これは、従来の「長さ最小化」モデルでは説明がつかない現象でしたが、実際の脳内では頻繁に観測されます。 ファインマン図や弦理論といった素粒子物理学のツールが、脳の解剖学的構造の「なぜ」を説明する日が来るとは、科学の越境性に改めて驚かされます。
さて、こうした「物理による形態形成」の話題になると、しばしば引き合いに出されるのが「乳腺」の分岐構造です。 乳腺もまた、限られた空間の中で表面積を最大化するような複雑な樹状構造を持っています。かつては、この形成プロセスを「粘性指状化(Viscous Fingering)」、すなわちサフマン・テイラー不安定性という流体力学の現象で説明しようとする試みがありました。これは、2枚のガラス板の間に粘度の高い液体を挟み、そこに低い粘度の液体を注入すると、境界が不安定になり指状の分岐が生まれる現象です。
しかし、最新の生物物理学は、この単純な流体モデルに対しては批判的です。 脳のネットワークが3次元的な「表面積」のルールに支配されているのと同様、乳腺もまた、2次元の流体現象では語りきれない複雑さを持っています。実際の生体組織では、硬い細胞層が柔らかい脂肪組織へと侵入していくため、サフマン・テイラー不安定性が起きる条件(高粘度を低粘度が押す)とは物理的に逆の状態にあるからです。
現在では、乳腺の形成は受動的な流体の広がりではなく、より能動的な「分岐・消滅ランダムウォーク(BARW)」というモデルで説明されるようになっています。これは、枝の先端が粒子のように振る舞い、互いにぶつからないように「自己回避」しながら空間を探索していくプロセスです。 つまり、脳は「弦(String)」の物理学で、乳腺は「粒子(Particle)」の統計力学で、それぞれ異なる最適解を導き出しているのです。
そもそもこの文章を書き始めた辞典で私は乳腺もニューロンと同じ理論で説明できるのだろうかと考えていたのですが、どうも違うようです。
こうした考えの延長線上で脳の皺はどうなんだという疑問も生じるところでしょう。これについても様々な説がありましたが2025年に「不均等成長説」で決定だろうというような論文が出ています。(Yin et al., 2025)大きな折りたたみ構造は白質と灰白質の成長速度に差があるので決定される、というのです。しかし皺の模様までは決定できません。軸索張力が関わるのではないかという仮説は生き残っていて、これが前述の表面積最小化と組み合わされると、その最適解として脳の皺の形が決定される可能性はあります。
フラクタルに支配され美しいとされる生物の形もその結果であり、その裏側では、それぞれの環境と機能に応じた厳密な数学的秩序が存在しています。 もし、私たちがこれらの物理法則──長さではなく表面積、流体ではなく粒子のルール──を正しく理解し、工学的に応用できるようになれば、世界は大きく変わるでしょう。 例えば、車のハーネスや半導体設計、エネルギーロスを極限まで減らした次世代の送電網、真に生物的な構造を持つ人工臓器の設計が可能になるかもしれません。
生物の形は、私たちが思っている以上に物理的で、合理的です。 新しい年のはじめに、生命の設計図の奥深さを改めて考えさせられる、示唆に富んだ研究でした。