村上春樹さんの評論文で、「良い小説」の定義として「読者に選択を任せられるのが良い小説」という表現を用いていたように思う。
物事は、並び替えをすることで、意味が変わってくる。そういう事も言っていたように思う。うろ覚えだけれど。そういう経験は誰にでもあるのではないか。
詳細な描写の積み重ねをしていくと、読者は自分の心地よい順番にその優先順位を並べ替えていき、結果として「物語と同化していく」という事が起きるのだと理解する。しばしば村上春樹さんの小説には断定的ではない表現が出てくるけれどもそれが効果的なのだろう。
外来の作法も小説と同じく、証拠を積み重ね、それらを患者が理解し治療法を選択するのが理想だ。
「薬は嫌いだ」と言う人々は、「理解と選択」をしてこなかった人たちだと直感的に思う。「薬をくれくれ」という人々も同じく「理解と選択」をしてこなかったという点では同じだけれど、「薬は嫌い」な人たちのほうが、損をすることが多い。
そういう彼らには苦い過去や、理解や選択が許されない環境があって、それらを急に変えようとは思わないけれど、損するのは患者なので普段の外来で介入できないかと思っている点の一つではある。
よく言われる「動機付け」というものである。
小説を読むのが好きだ、という人は外来で医師と上手に会話が出来るのだろうか。特に村上春樹ファンは、自己決定にすぐれた人々なのか。良く分からないのであるけれど、本を読む、はいろいろな物事を解決してくれるので、悩んでいる人には勧めています。本を読んで自分なりに解釈することは立派な「選択」のトレーニングだから。
さて「適切な動機で病気を治療する、症状を取るように努力する」は患者がとるべき行動としての第一段階だと思う。その上には「自分で考えて、応用していく」があり、さらにその上には「突発的な事態に対処する」がある。
第一段階の手前で止まっているのはとても損で。
「薬は嫌」っていう考えが「あれ?そうでもないかな?」って思うような体験をするのには、胃腸の薬というのは比較的適切ではあって、いつも苦労しながら患者さんに良い体験をしてもらえるよう頭をぐるぐると回転させております。
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