2019/07/15

ラショウモンエフェクト

物理学者のファインマンさんの言葉を引用したザ・ニューヨーカーの記事で、"the Rashomon effect"という言葉があり、それは羅生門効果というものだということを初めて知りました。

1964年にコーネル大学での講義で、あのリチャード・ファインマンさんは2つの物体が引き合う事をどう説明するかについて三様の説明があることを示しました。ニュートン力学によるもの、重力による時空の歪み説によるもの、エネルギーの最小化説に伴うもの、があって、それぞれほぼ正しい予測を導くというものです。フェインマンさんはこのように、自然とはいくつもの解釈体系を持っている事が驚くべき特徴である、と述べたのです。

一般に、法律、であるとか、常識、のような人間が作り出したものはこのような多様性はありませんよね?(「神話」がどうか、という部分についてはデリケートなので議論は避けますが)ところが自然のこうした神秘的な特徴は、しばしば学問を難しくしてしまいます。いろいろな解釈の仕方がありすぎて、真実の理解が難しくなることがあるのです。

例えばダークマターが一体なにか、という事について我々はまだ答えを得られていません。ある観察をすればこういう証拠があって、別の観測をしたらこういう証拠があった、これが羅生門効果を生み出してしまい、真実を覆い隠してしまっているようなのです、今のところは。

と言うことに物理学者は気づいて次の一歩を踏み出しつつある、というようなザ・ニューヨーカーの記事です。細かく見ていけば見ていくほど既存の法則には矛盾があることに物理学者は気がつきました。前述のファインマンさんの言葉の通り、複数の説明の仕方が可能なのは確かに自然の神秘をあらわししているけれど、実際には「ほぼ同じ」でありながら細かく観察したときに競合します。その矛盾を突き詰めて考えたときに正しい事が判明する、という事を物理学は歴史的に繰り返し、なるべく空間や時間の概念に影響されぬよう進化しています。

今後も生じるいろいろな矛盾を越えていくためには、今までの理論を再定式化する事が大切だと物理学者は考えています。ファインマン・ダイアグラムはその一例です。Scattering Amplitude(散乱振幅という概念で、物理現象を数式に変換したもの)はそこから派生して生まれました。アインシュタインの理論はビッグバンの瞬間にさかのぼったり特異点では通用しません。空間も時間も参照しないScattering Amplitudeならば書きあらわせる可能性があります。

https://www.newyorker.com/science/elements/a-different-kind-of-theory-of-everything

ファインマン・ダイアグラムを画像をアニメで解説
https://www.youtube.com/watch?v=qe7atm1x6Mg
(日本語解説:https://gigazine.net/news/20190516-feynman-diagrams/

と、いうような事を、記事を読んで2時間後にここに私が書いたのはなぜなのでしょうか。

①巨視的に物事を見たときと、詳細に物事を見たときにはしばしば食い違いが見られるのであるが、それについて「なぜか」「どこかに間違いがないか」「実は同じことを見ていないか」「何か真実が隠れていないか」そういう視点に欠けている人々が多い。私の仕事は患者さんにその矛盾に見える食い違いが矛盾ではないことを知ってもらうこと、と言っても過言ではないほどです。人の体については特にそうだから、羅生門効果を自覚しておくべきだし、自分はもともと意識しているので、私の意見は参考になるはずです。(と、患者さんに信頼してほしくて書いています)(2020/09/22追記:コロナウイルス禍においてはまさしく羅生門効果が見られます
②自然科学においては羅生門効果が見られてもその矛盾はいずれ解決できるかもしれない。しかししばしば羅生門効果が観察される社会における矛盾は、自然Natureとは違い人間が作り出した一種のゲームの世界であるがゆえに突き詰めれば解決されるというシンプルなものではないだろう。しかしその食い違いを埋めて調和を得る事は将来は可能かもしれない。若い人々には大きな可能性があるので羨ましい。少なくともゲームを馬鹿にするような人には(略
③ファインマンさんは巨大な頭脳であるので、「ご冗談でしょう、ファインマンさん」は読んでおこうと思った。(もう読んだ気もするが)
ミチコカクタニさんがTwitterでRTしていたのでこの評論を読みました。ミチコカクタニさんは引退したけれど超有名な辛口書評家です。知性に触れたい場合、こういう有益な情報源があります。
⑤(2020/09/22追記)物理学はともかく、シンプルな数式化が遅れている生物学・医学では羅生門効果が深刻な混沌を生みつつある。シンプルな数式で語ることは難しいにせよ、物理学、数学との融合(いつか書いたと思いますが)が今後ますます重要だ。

2019/07/10

審美眼について

ローザンヌ国際バレエコンクールの解説は2017年から山本康介さん。短い時間でバレエへの理解が深まる良解説です。家族は知っていたから有名な人なのだろうと思う。今回はじめて見ました。

パリオペラ座バレエ学校のクロード・ベッシーさんの解説を懐かしむ声もありますが「体型、見た目をまずぶった切る」という、おそらく現代では放送コードに引っかかるような内容ではなく、むしろ総合芸術の本質とは、を我々にわかりやすく解説する、素晴らしいものでした。(言葉そのものは抽象的ですが、それがまた良い)
ベッシーさんの視線も「伸びしろを見る」という点では共通点はありますがダンサーの印象を我々に残さない内容であったことに比較すると、山本さんの伸びしろ目線は、ダンサーの個性を際立たせたという点で番組としては上質である、と感じました。米国のマッケンジー・ブラウンさん(1位)、ブラジルのガブリエル・フィゲイレド(2位)さんの舞踊は解説がなくても「お!」とういものでしたが、解説がついてなおよくわかりました。ローザンヌの審査は練習段階から始まると聞きますから尚の事彼(練習を見ている、ベッシーさんもそれとわかることを言う)の解説は舞踊の印象を補完してくれるのです。

山本さんに興味が湧いて検索し、インタビュー記事を読みました。バレエの発生がフランス貴族社会で、キツネの手の形は指輪を落とさないためであるとか、歩くとき膝が先に出ないのはハイヒールを履いていたからとか、クラシックバレエの必然性や作法の由来が書かれていて納得しました。それに加えて面白い記述がありました。フランスと日本の総合芸術に関する感性の差。

>たとえばフランスは、「オシャレで遊び心があって、きちっとした中に一つだけ乱す美意識」。それに対して日本は、「全部完璧じゃないといけない。」

これを読んで「あれ?」と思うのは自分だけではないかもしれません。千利休が塵一つなく掃き清めた庭に最後にもみじの葉をほんの少し散らしたエピソードは有名ですが、日本だってそれを「美」としていなかっただろうか。日本の総合芸術(バレエ)における美意識が「完璧さ」だとしたら、かけ離れています。いったいどう発達してきたのでしょう。(関係ないけど「いきの構造」を書いた九鬼周造はフランス留学をしていて良かったと思う)

急に話が飛びますが、よく患者さんで医者に完璧さを求める人がいます。それは正しい評価力を持たない不安な気持ちを隠す行動に見えます。総合芸術に限らず、スポーツなどあらゆる場面でこの国では「完璧の追求」が垣間見え、それが肯定される傾向はあります。お笑いですらそういう傾向があるように思う。しかし、それはもしかすると審美眼を育んでいく姿勢が受け手側に欠如している事が背景にあるのかなあと思いました。千利休もそんな感じの発想はしていたように思います。

子供の審美眼(にとどまらない、何かを評価する力)をどう育てるかは先日デトロイト美術館でその一端を見ました。

若い人はどのように芸術を鑑賞すれば良いんだろう?という問いかけに、デトロイト美術館の答え(の一つ)。「彫刻があったら、その形態の真似をしてみる。それも正しいアートの鑑賞方法の一つです」と。

アートに自分の人生を投影するのは大人の鑑賞法ですが、その逆で、作品を自分に投影せよというのです。確かにこれは正しい審美眼の育て方の一つです。日本も同じ教育をしていると思いますがそれの意味するところを上手に言語化することで審美眼が育った気になる、という点が違うかもしれません。