2017/09/18

天才とビッグデータ

医療をビッグデータでやるとノイズが多いことと天才の考えが埋もれる、という2つの懸念がある。

天才は身近に何人かいるし、自分も天才とは言わないまでもかなり変わった着想をするが、それが埋もれぬようにするためには、AIに入れるデータは最低でも30年分ぐらいをまとめて、という発想が大切である。長期的に良いパフォーマンスを生み出している医者の変化(!)こそが重要である。

院長は自分の患者についてきちんと電子的に保存しようと発想したことが非凡だった。40年分ぐらいのデータがすでにある。(NECのPC-8001が発売されたころから)

自分が医者になった時にすでに20年分ぐらいデータがあって、幸い僕はそういうデータを活用できる人間としては非凡であり、天才本人が気づいていないそのデータの使いかたを着想して応用してきたから、医者になってすぐにそこらのベテラン医師を超える経験を身に着けていたといえる。(その点については自信を持っていた)

その後癌研(大塚→有明)に行って、1年あたり10年分の経験を身につけられる場所があるのだなと知り、病気はハイボリュームセンターで診なければ意味がないと考えるに至った、その経験が共有されないならば。(つまり現状では病気になったらハイボリュームセンターに行くべきだ)

しかし時代は変化していくだろう。
VRやMRで名医の経験が脳に直接接続され共有可能な時代が来る。すると感覚を共有できる人間(たぶん少数)が選ばれて次世代の名医になる。(特に優れた人間は、なれるものではなく、選ばれるものである)

天才の発想や経験を記録したり共有してそれが理解できる人を選ぶことが、時代を加速させていくために必要なことだ、と考えている。これは今進行しているビッグデータ云々とは少し違う発想である。







注:世の中で「独自の」とか言ってる人は100%イカサマである。自分の世界しか見えない人は自分の考えが「独自」と思ってしまう。天才は「誰でも見えるでしょ?わかるでしょ?普通じゃん」と思ってしまうものである。逆にそれをフィルターにも使える。自分は特別なことをやっている、と自分で言う医者は避ければ良いだけである。自分の興味は本物の天才の行方だけである。本物の天才がどのように考え発想し、それがどう変化していくのかを見届けたいが、それをどう見出すかを常に考えている。

2017/09/17

言語の理解は重要だが

普段仕事で多数の人と話すのですが、日本語を言語として正しく理解している人としていない人がいて、後者の方々はときに不幸な場合があるかもしれません。


Aという事象や概念があって、これを言語化して私は相手に伝えます。言語化というのは非常に高い能力が必要です。東京大学の文系でもトップクラスの人々や、東大模試で国語全国何位、という人々が選ぶ言葉は意味が非常に厳密に規定され、「聞く人が聞けば誤解が少ない」ようにコントロールされています。しかしそれを察する事ができる人はあまり多くはないようです。幸い私は大学受験時に国語の成績だけは(理系の中では)トップクラスで、ある程度は得意だからわかるのかもしれません。わざと誤解して歪曲して伝える事も簡単で、それを利用して生業にする職業の人々もいるぐらいです。


さて、言語化されたAという事象。


正しく言葉を理解できた人は「Aが正しいかどうか」を考えることだけに集中できます。しかし正しく言葉を理解できない人々は「Aが正しいかどうか」以前にAを誤解している可能性があります。したがって聞いた情報が正しいかどうかを判断できないのです。これは時に不幸で、とりあえず信じてみれば、私は決して患者にデメリットがある提案はしない前提ですんなりと事が運ぶけれども、信じられない人は永久に抜け出せないデススパイラルにはまってしまう。


時々医療者が信じられないと受診する人がおられますが、それは2つに分けられて、後者の人々がいる。何かに文句をすぐに言う人にも後者がいる。言語が正しく理解できていないから、誤解の解消もとてもむずかしいのです。それを補っているのが「信用」とか「信頼」なのだと理解しています。人類の歴史上、コミュニケーションに難があるケースが多々有ったと思われ、必然的に生じた概念ではないか、と思います。


信頼を得るために嘘八百並べられたのが今までの世の中です。
たぶんビッグデータが活用されるようになると大きな嘘がつけなくなります。その代わり、100%の信頼など幻想だということもますます明らかになるはずです。もちろんコンピューターを騙す手口も開発されるでしょうが、今よりは真実がわかるようになります。
そういう時代になりますと、ますます言語を正しく理解する能力が必要になってくるのです。


がんばって勉強しようね、と若い人にいうのはそういう理由です。

2017/09/02

記録とノイズ

患者さんにはなんでも記録しなさい、と言っている。
なんでも、だ。
これはもしかしたら病気と関連しているかもしれない、などという情報は邪魔で、一切のバイアスを入れずに淡々と記録することだ。
何を食べたか、というような写真は悪くない。

それに対して「なんでも記録する事は患者を神経質にするのでは」という批判が考えられる。

自分もその可能性があると思い長年注意深く検証を続けてきた。
しかし「神経質」とは「特定の情報への執着」であって、情報をまんべんなく収集することではない。非常に偏った情報収集の仕方をすることが「神経質」の本質だ。

まんべんなく収集することはそれに相対する概念で、患者をそれ以上神経質にすることはない。むしろ大量の情報を集めてみると実はそれらが因果関係の特定にはほとんど役に立たないということをわかる材料となる。

因果関係がないならば、情報収集は無駄じゃないかって?そうじゃない。

報道や占い師など、まるで物事にすべて因果があるかのように書くことがあるかもしれないけれど、それは嘘で、事象は偶然に左右されることが多いのだ、という事をまず理解することが重要だし、大量の情報収集はそれを勉強するいい機会だ。待って過ぎ去るのを待つことがもっとも期待値の高い対処法だ、というような事は風邪のときの振る舞いの分析などから明らかになる。ノイズがないときには逆におかしい、と気づくことも可能だろう。

また情報のアノマリーが出現したときには、これは普段とは違う、という事を気付けるきっかけになる、しかも高精度にだ。多くの患者さんの「普通」とか「こんなに痛いのははじめて」という表現は、ひどくいい加減で信用が出来ることは少ないが、とてつもなく豊富な情報を持っている人のそれは、信憑性が増すのは当然の事である。

さて人に共感する能力が高い人はこれらの記録が不要なことがあるかもしれない。ありとあらゆる隣人の経験を自分の経験として感じることが出来る彼らは生まれつき多くの記録を脳に有する事になっていて、しなやかな考え方を持っていることが多い。彼らの判断というものは比較的正しいことが多い。