2026/01/11

生物の「形」に潜む物理法則:紐理論とランダムウォーク

新年早々出会った論文が、読むのに随分時間がかかるものでしたので共有します。
ノースイースタン大学のBarabásiらが Nature 誌の表紙を飾った、"Surface optimization governs the local design of physical networks" という研究です。
そもそもこのイメージがなんなのか、という話ですが。
この表紙は3DプリントされたBarabási-Albertモデルです。ご存知ないと思うので文字をクリックしてみて下さい。

さて近年、脳の全機能をシミュレーションする「人工脳」の構築が現実的なゴールとして語られるようになり、競争が行われています。そして脳内の配線構造をどう模倣するかが重要な課題となっています。従来、脳の配線は「距離の最小化」、つまり信号の移動距離を最短にするという経済合理性に従って設計されていると信じられてきました。 半導体設計もそうです。

ところが、実際のコネクトーム(神経回路地図)を高精度な3Dで解析してみると、配線は必ずしも最短距離を通りません。一見すると非効率に迂回したり、奇妙な角度で分岐したりしていることが明らかになりました。

この謎を解く鍵として彼らが持ち出したのが、物理学の「超弦理論(ストリング理論)」でした。 研究チームは、ニューロンを単なる抽象的な「線」としてではなく、太さを持った物理的な「管(チューブ)」として捉え直しました。そして、南部・後藤アクション(Nambu-Goto action)と呼ばれる、弦理論で「時空の面積」を最小化するために使われる数学的枠組みを適用したのです。 (この計算は複雑で、コンピューターが必要です)その結果、驚くべき事実が判明しました。脳のネットワークが最適化していたのは「長さ」ではなく、チューブの「総表面積」だったのです。

特に興味深いのは、3次元空間で表面積を最小化しようとすると、親コードに対して90度の角度で枝が生える「直交分岐(Orthogonal Sprouting)」が、エネルギー的に安定な解として現れるという点です。これは、従来の「長さ最小化」モデルでは説明がつかない現象でしたが、実際の脳内では頻繁に観測されます。 ファインマン図や弦理論といった素粒子物理学のツールが、脳の解剖学的構造の「なぜ」を説明する日が来るとは、科学の越境性に改めて驚かされます。

さて、こうした「物理による形態形成」の話題になると、しばしば引き合いに出されるのが「乳腺」の分岐構造です。 乳腺もまた、限られた空間の中で表面積を最大化するような複雑な樹状構造を持っています。かつては、この形成プロセス
を「粘性指状化(Viscous Fingering)」、すなわちサフマン・テイラー不安定性という流体力学の現象で説明しようとする試みがありました。これは、2枚のガラス板の間に粘度の高い液体を挟み、そこに低い粘度の液体を注入すると、境界が不安定になり指状の分岐が生まれる現象です。なんとなく乳腺と似てますよね。

Wikipediaより

しかし、最新の生物物理学は、この単純な流体モデルに対しては批判的です。 実際の生体組織では、硬い細胞層が柔らかい脂肪組織へと侵入していくため、サフマン・テイラー不安定性が起きる条件(高粘度を低粘度が押す)とは物理的に逆の状態にあるからです。(それを説明するもう一つの仮説も必要でした)また、脳のネットワークが3次元的な「表面積」のルールに支配されているのと同様、乳腺もまた、2次元の流体現象では語りきれない複雑さを持っています。

現在では、乳腺の形成は受動的な流体の広がりではなく、より能動的な「分岐・消滅ランダムウォーク(BARW)」というモデルで説明されるようになっています。これは、枝の先端が粒子のように振る舞い、互いにぶつからないように「自己回避」しながら空間を探索していくプロセスです。 つまり、脳は「弦(String)」の物理学で、乳腺は「粒子(Particle)」の統計力学で、それぞれ異なる最適解を導き出しているのです。

そもそもこの文章を書き始めた辞典で私は乳腺もニューロンと同じ理論で説明できるのだろうかと考えていたのですが、どうも違うようです。しかも仮説が最近変化しており、これを調べるのに随分時間がかかってしまったというのが実際です。しかし、とても面白い話ではないですか。

こうした考えの延長線上で脳の皺はどうなんだという疑問も生じるところでしょう。これについても様々な説がありましたが、これも最近大きな動きがありました。2025年に「不均等成長説」で決定だろうというような論文が出ています。(Yin et al., 2025)大きな折りたたみ構造は白質と灰白質の成長速度に差があるので決定される、というのです。しかし皺の模様までは決定できません。皺の生成には軸索張力が関わるのではないかという仮説は生き残っていて、これが前述の表面積最小化と組み合わされると、その最適解として脳の皺の形が決定される可能性はあります。

フラクタルに支配され美しいとされる生物の形もその結果であり、その裏側では、それぞれの環境と機能に応じた厳密な数学的秩序が存在しています。 もし、私たちがこれらの物理法則──長さではなく表面積、流体ではなく粒子のルール──を正しく理解し、工学的に応用できるようになれば、世界は大きく変わるでしょう。 例えば、車のハーネスや半導体設計、エネルギーロスを極限まで減らした次世代の送電網、真に生物的な構造を持つ人工臓器の設計が可能になるかもしれません。

生物は、私たちが想像しているよりも高度な物理や数学で埋め尽くされているようです。聴力に関しては脳内でフーリエ変換をしている、とも言われますよね。非常に美しく合理的。 新しい年のはじめに、生命の設計図の奥深さを改めて考えさせられる、示唆に富んだ研究でした。

2025/04/29

銃・病原菌・鉄とは違う、善玉菌の描く地図


銃・病原菌・鉄とは違う、善玉菌の描く地図

 ―― 発酵の旅と、酵母が刻んだもうひとつの地図 ――

ラガービールを口にするとき、私たちの潜在意識はどこを旅しているのでしょう。

私自身は飲めないのですが、好きだと仮定した場合、伯父の所属した仙台のキリンの研究所や、ジャパン・ブルワリー時代に勤務していた祖父の姿かもしれない。ある人はバイエルンの石造りの地下室、陽光の差す修道院、オクトーバーフェスト、あるいはジョッキで交わす乾杯だったりするのでしょう。そんな中「パタゴニア」を思い浮かべる人はきっとまずいない。でも、一部の科学オタクは、2011年に発表されたある研究を覚えているかもしれない。

2011年、アルゼンチンの科学者ディエゴ・リブカインド(Diego Libkind)らのチームによって、南米パタゴニアの森林から Saccharomyces eubayanus という野生酵母が分離・同定されました。この発見は、長年不明だったラガービール酵母 S. pastorianus の「もうひとりの親」を突き止めたことで、世界のビール史に新たな光を当てました。

その後、S. eubayanus は北米やニュージーランド、チベット高原など様々な地域でも発見されましたが、これらは比較的進化が進んだ株であることが分かっています。近年、アルゼンチン・パタゴニアの遺跡から発見された非常に古い土器から検出された株が、これまでに知られていたどの系統よりも古い特徴を持つことが明らかになり、あらためてこの地が低温発酵酵母の保存庫として重要だったことが浮かび上がってきました。

つまり、単にパタゴニアで見つかったというだけでなく、「より原初に近いeubayanusが現存していた場所」として、パタゴニアは特別な意味を持つのです。

現代のラガービール発酵に重要な酵母は、この南米由来の酵母と、ヨーロッパのビール酵母 S. cerevisiae が偶然に交配して生まれたハイブリッドとして誕生し、耐寒性を獲得しました。そしてそのハイブリッドが、バイエルンの冷たい地下室でラガー文化を花開かせたのです。

ただしあまりに完璧なハイブリッドだったがゆえ、20世紀初頭にあって均一に沢山のビールを作ることが出来る最大の利点により世界を席巻した反面「どれを飲んでも同じ味で単調だ」という感想を持つ人がいたかもしれません。実際ビール酵母の S. pastorianus の改良は困難で、S. eubayanus が発見されるまでは無理だとも言われていたのです。これはまた別のストーリーです。

ハイブリッド酵母とはなにか

「ハイブリッド酵母」とは、異なる種の酵母同士が交雑して生まれた、性質の異なる新種を意味します。S. pastorianus は、発酵温度が10度前後と低く、寒冷地でも安定して発酵を行えるという性質を持っています。

この性質こそが、寒冷なバイエルンの地下貯蔵庫において「長期低温発酵」に適応したラガービールを成立させた鍵となりました。偶然か、必然か。ヨーロッパでラガー文化が花開く裏には、見知らぬ南米の森で、気温の低い環境にじっと耐えてきた酵母の力が働いていたのです。

気づいたかもしれませんがビール酵母には、かのルイ・パスツールの名が刻まれています。彼が19世紀に行ったビールとワインの発酵研究によって、「酵母は生きている」「発酵は微生物によるもの」という認識が広がりました。そして、ミュンヘンの醸造研究所で低温発酵の研究により同定されたこの新種酵母には、彼にちなんで pastorianus の名が与えられたのです。

発酵後のビール酵母を商品にしたものではエビオスとかマーマイトがありますね。

サワードゥ・スターターと糠漬け:発酵の母

ここで、酵母の「保存」や「継承」の概念を考えるうえで知っておいていただきたいのは、サワードゥ・スターターです。サワードゥとは、パン酵母の元種のこと。適度な室温の中で小麦粉と水を混ぜて放置、空気中や手肌に付着する自然酵母が付着して発酵させ、半分捨てては小麦粉を足して発酵を維持したものです。当然スターターは家ごとに違い、味も香りも異なります。フランス語では「ルヴァン」と言い、つまりクラッカー商品になってます。世界中にこのサワードゥを使ったパンがあります。このサワードゥには、ビール酵母の親の一つであるSaccharomyces cerevisiae と乳酸菌 Lactobacillus sanfranciscensis が主に生育しています。

これは、日本のぬか漬け文化にも通じます。ぬか床は糖分を減らし、塩分を入れてスローな生育を促す環境を用意しているのがサワードゥとは異なりますし、大勢を占めていた大腸菌が乳酸菌に置き換わり、時間をかけて酵母が増えていく育ち方も違いますが、各家庭の微生物相によって風味が当然異なったり、酵母と乳酸菌が主体となる点では似ています。代々受け継がれ、無数の酵母、乳酸菌、あるいは酪酸菌が棲むぬか床は、まさに「微生物の生きた記憶」と言えましょう。

こうしたスターター文化が意味するのは、「酵母とはどこかから持ってくるものではなく、我々と共生し、それを日々育み、受け継ぐものだ」という考え方です。

メソポタミアのビールとの接続:発祥と進化

さて「ビールはメソポタミア発祥」などと思っていましたけれど、どう繋がるのでしょうか。確かに、紀元前3000年ごろのメソポタミアでは、パンとビールがセットで作られていことが知られています。パンを水に浸し、自然発酵させたものが“初期のビール”だったというのです。

常温で発酵する S. cerevisiae によるそのビールは、現代でのエール型のビールに近いものです。すぐに腐敗するので作ったらすぐ飲まれていたと言います。

メソポタミアでビール文化が生まれ、はるかな時が経過した中世ドイツでもビールは沢山飲まれていました。1516年4月23日にヴィルヘルム4世がビール純粋令(ビールを水、ホップ、大麦から作ること)を公布しています。公布当時はなかった「酵母」が1551年に付け加えられ、1553年には下面発酵が明記されました。そして1602年、その孫ヴィルヘルム5世の設立したバイエルン州ミュンヘンのホフブロイハウス醸造所において S. cerevisiae と、寒冷地耐性を持つ S. eubayanus が自然交配し、画期的なハイブリッド S. pastorianus が誕生したと考えられています。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見から、現代ビールの祖となるまでわずか110年。この善玉菌は「銃・病原菌・鉄」とは真逆の経路で世界を支配していきます。そんなドラマが水面下で生じていたとは想像もしていませんでした。

パタゴニア:最果ての保存庫

パタゴニアとは、チリとアルゼンチンにまたがる、風と氷と山と森の土地です。アフリカからアジア、アラスカを経由して地球を旅した人類の到達点です。その名を冠したアウトドアブランド「Patagonia」の創業者イヴォン・シュイナードがこの地に着目したのは、自然が過酷であり手つかずで、どこか「地の果て」感があったからだといいます。チリとアルゼンチンにまたがるこの地域は、氷河と山々、森と湖に囲まれた世界屈指の辺境でありながら、そこには人類の古い営みの痕跡も残ります。

そして今、科学的に見てもこの地域は「発酵微生物の保存庫」であったことが証明されました。極端な環境において生き延びた S. eubayanus のDNAが、「銃・病原菌・鉄」とは逆の経路でヨーロッパに伝わり、新たな文化を花開かせたのは素敵な話だと思いませんか。

「行動する環境保護団体」を標榜するこの企業は、原料のトレーサビリティや生物多様性の保全に強いこだわりを持ちます。Patagonia Provisionsという食料部門がありますが、まだ発酵に関して熟考された商品は多くありません。しかしもしかしたら、数年後には「南米原種酵母によるクラフトラガー」なる商品が、“酵母の故郷に敬意を表して”登場している可能性はあるでしょう。

そして、ビールをもう一口

今日あなたが飲んでいるその一杯のラガービール。それはフィルターでろ過されてしまってはいても、氷河のふもとの森で静かに進化してきた微生物の記憶の産物です。人類が行き着いた最果ての地、パタゴニアから酵母のDNAが我々のもとに帰ってくる、その旅路・冒険を想像する事は酒の肴としては悪くないでしょう。


参考URL:
https://www.kirin.co.jp/alcohol/beer/daigaku/HST/hst/no30/
https://www.nta.go.jp/about/organization/tokyo/sake/seminar/r5/2305/material.htm
https://www.pnas.org/post/journal-club/blonde-beers-may-owe-their-origins-patagonia
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1105430108