2025/04/29

銃・病原菌・鉄とは違う、善玉菌の描く地図


銃・病原菌・鉄とは違う、善玉菌の描く地図

 ―― 発酵の旅と、酵母が刻んだもうひとつの地図 ――

ラガービールを口にするとき、私たちの潜在意識はどこを旅しているのでしょう。

私自身は飲めないのですが、好きだと仮定した場合、伯父の所属した仙台のキリンの研究所や、ジャパン・ブルワリー時代に勤務していた祖父の姿かもしれない。ある人はバイエルンの石造りの地下室、陽光の差す修道院、オクトーバーフェスト、あるいはジョッキで交わす乾杯だったりするのでしょう。そんな中「パタゴニア」を思い浮かべる人はきっとまずいない。でも、一部の科学オタクは、2011年に発表されたある研究を覚えているかもしれない。

2011年、アルゼンチンの科学者ディエゴ・リブカインド(Diego Libkind)らのチームによって、南米パタゴニアの森林から Saccharomyces eubayanus という野生酵母が分離・同定されました。この発見は、長年不明だったラガービール酵母 S. pastorianus の「もうひとりの親」を突き止めたことで、世界のビール史に新たな光を当てました。

その後、S. eubayanus は北米やニュージーランド、チベット高原など様々な地域でも発見されましたが、これらは比較的進化が進んだ株であることが分かっています。近年、アルゼンチン・パタゴニアの遺跡から発見された非常に古い土器から検出された株が、これまでに知られていたどの系統よりも古い特徴を持つことが明らかになり、あらためてこの地が低温発酵酵母の保存庫として重要だったことが浮かび上がってきました。

つまり、単にパタゴニアで見つかったというだけでなく、「より原初に近いeubayanusが現存していた場所」として、パタゴニアは特別な意味を持つのです。

現代のラガービール発酵に重要な酵母は、この南米由来の酵母と、ヨーロッパのビール酵母 S. cerevisiae が偶然に交配して生まれたハイブリッドとして誕生し、耐寒性を獲得しました。そしてそのハイブリッドが、バイエルンの冷たい地下室でラガー文化を花開かせたのです。

ただしあまりに完璧なハイブリッドだったがゆえ、20世紀初頭にあって均一に沢山のビールを作ることが出来る最大の利点により世界を席巻した反面「どれを飲んでも同じ味で単調だ」という感想を持つ人がいたかもしれません。実際ビール酵母の S. pastorianus の改良は困難で、S. eubayanus が発見されるまでは無理だとも言われていたのです。これはまた別のストーリーです。

ハイブリッド酵母とはなにか

「ハイブリッド酵母」とは、異なる種の酵母同士が交雑して生まれた、性質の異なる新種を意味します。S. pastorianus は、発酵温度が10度前後と低く、寒冷地でも安定して発酵を行えるという性質を持っています。

この性質こそが、寒冷なバイエルンの地下貯蔵庫において「長期低温発酵」に適応したラガービールを成立させた鍵となりました。偶然か、必然か。ヨーロッパでラガー文化が花開く裏には、見知らぬ南米の森で、気温の低い環境にじっと耐えてきた酵母の力が働いていたのです。

気づいたかもしれませんがビール酵母には、かのルイ・パスツールの名が刻まれています。彼が19世紀に行ったビールとワインの発酵研究によって、「酵母は生きている」「発酵は微生物によるもの」という認識が広がりました。そして、ミュンヘンの醸造研究所で低温発酵の研究により同定されたこの新種酵母には、彼にちなんで pastorianus の名が与えられたのです。

発酵後のビール酵母を商品にしたものではエビオスとかマーマイトがありますね。

サワードゥ・スターターと糠漬け:発酵の母

ここで、酵母の「保存」や「継承」の概念を考えるうえで知っておいていただきたいのは、サワードゥ・スターターです。サワードゥとは、パン酵母の元種のこと。適度な室温の中で小麦粉と水を混ぜて放置、空気中や手肌に付着する自然酵母が付着して発酵させ、半分捨てては小麦粉を足して発酵を維持したものです。当然スターターは家ごとに違い、味も香りも異なります。フランス語では「ルヴァン」と言い、つまりクラッカー商品になってます。世界中にこのサワードゥを使ったパンがあります。このサワードゥには、ビール酵母の親の一つであるSaccharomyces cerevisiae と乳酸菌 Lactobacillus sanfranciscensis が主に生育しています。

これは、日本のぬか漬け文化にも通じます。ぬか床は糖分を減らし、塩分を入れてスローな生育を促す環境を用意しているのがサワードゥとは異なりますし、大勢を占めていた大腸菌が乳酸菌に置き換わり、時間をかけて酵母が増えていく育ち方も違いますが、各家庭の微生物相によって風味が当然異なったり、酵母と乳酸菌が主体となる点では似ています。代々受け継がれ、無数の酵母、乳酸菌、あるいは酪酸菌が棲むぬか床は、まさに「微生物の生きた記憶」と言えましょう。

こうしたスターター文化が意味するのは、「酵母とはどこかから持ってくるものではなく、我々と共生し、それを日々育み、受け継ぐものだ」という考え方です。

メソポタミアのビールとの接続:発祥と進化

さて「ビールはメソポタミア発祥」などと思っていましたけれど、どう繋がるのでしょうか。確かに、紀元前3000年ごろのメソポタミアでは、パンとビールがセットで作られていことが知られています。パンを水に浸し、自然発酵させたものが“初期のビール”だったというのです。

常温で発酵する S. cerevisiae によるそのビールは、現代でのエール型のビールに近いものです。すぐに腐敗するので作ったらすぐ飲まれていたと言います。

メソポタミアでビール文化が生まれ、はるかな時が経過した中世ドイツでもビールは沢山飲まれていました。1516年4月23日にヴィルヘルム4世がビール純粋令(ビールを水、ホップ、大麦から作ること)を公布しています。公布当時はなかった「酵母」が1551年に付け加えられ、1553年には下面発酵が明記されました。そして1602年、その孫ヴィルヘルム5世の設立したバイエルン州ミュンヘンのホフブロイハウス醸造所において S. cerevisiae と、寒冷地耐性を持つ S. eubayanus が自然交配し、画期的なハイブリッド S. pastorianus が誕生したと考えられています。1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見から、現代ビールの祖となるまでわずか110年。この善玉菌は「銃・病原菌・鉄」とは真逆の経路で世界を支配していきます。そんなドラマが水面下で生じていたとは想像もしていませんでした。

パタゴニア:最果ての保存庫

パタゴニアとは、チリとアルゼンチンにまたがる、風と氷と山と森の土地です。アフリカからアジア、アラスカを経由して地球を旅した人類の到達点です。その名を冠したアウトドアブランド「Patagonia」の創業者イヴォン・シュイナードがこの地に着目したのは、自然が過酷であり手つかずで、どこか「地の果て」感があったからだといいます。チリとアルゼンチンにまたがるこの地域は、氷河と山々、森と湖に囲まれた世界屈指の辺境でありながら、そこには人類の古い営みの痕跡も残ります。

そして今、科学的に見てもこの地域は「発酵微生物の保存庫」であったことが証明されました。極端な環境において生き延びた S. eubayanus のDNAが、「銃・病原菌・鉄」とは逆の経路でヨーロッパに伝わり、新たな文化を花開かせたのは素敵な話だと思いませんか。

「行動する環境保護団体」を標榜するこの企業は、原料のトレーサビリティや生物多様性の保全に強いこだわりを持ちます。Patagonia Provisionsという食料部門がありますが、まだ発酵に関して熟考された商品は多くありません。しかしもしかしたら、数年後には「南米原種酵母によるクラフトラガー」なる商品が、“酵母の故郷に敬意を表して”登場している可能性はあるでしょう。

そして、ビールをもう一口

今日あなたが飲んでいるその一杯のラガービール。それはフィルターでろ過されてしまってはいても、氷河のふもとの森で静かに進化してきた微生物の記憶の産物です。人類が行き着いた最果ての地、パタゴニアから酵母のDNAが我々のもとに帰ってくる、その旅路・冒険を想像する事は酒の肴としては悪くないでしょう。


参考URL:
https://www.kirin.co.jp/alcohol/beer/daigaku/HST/hst/no30/
https://www.nta.go.jp/about/organization/tokyo/sake/seminar/r5/2305/material.htm
https://www.pnas.org/post/journal-club/blonde-beers-may-owe-their-origins-patagonia
https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1105430108


2025/04/01

病名の独り歩き

先日、New England Journal of Medicineに掲載されたエッセイ「The Definition of Failure」を読んだ。筆者はニュージーランド在住の疫学者。母親がCOVID-19をきっかけに心不全と診断された際のエピソードをもとに、「Heart Failure(心不全)」という言葉が患者に与える心理的影響を綴っていた。

興味深いのは、その母親が診断名を聞いた瞬間に「自分は死ぬのか」と思い詰め、さらには「自分が悪いせいでこの困難な状況に陥ったのではないか」と罪悪感を感じてしまったことだ。そして、治療が功を奏し安定してからも専門外来の名前や書類に繰り返される"Heart Failure"の文字が、病気そのものよりもむしろ心を蝕んでいく。その構造を、筆者は静かに、しかし明確に問題提起していた。

読んでいて、私も深く頷かされたが、同時にこうも思った――これは英語圏における問題であり、日本語では必ずしも同じようには響かない。

日本語で「心不全の状態です」と言われたとき、多くの患者は「心臓の機能に問題があるんだな」と理解する。「自分のせいだ」とは感じにくい。つまり、“failure”が持つ自己責任や敗北のニュアンスは日本語には直訳されない。英語以外ではどうなのか、と思って人工知能に調べてもらうと日本語以外でも罪悪感が起きにくい事がわかった。

言語による心不全の病名内「個人の失敗」ニュアンス

✅ 強く含まれる

  • 英語(failure)、アラビア語(فشل)、ヒンディー語(विफलता)、インドネシア語(gagal)、タイ語(ล้มเหลว)

🔶 やや曖昧だが含む可能性あり

  • オランダ語(falen)、スウェーデン語(svikt)

❌ 含まれない(機能的・中立的な語)

  • 日本語(心不全)、韓国語(심부전)、中国語(心力衰竭)、フランス語(insuffisance cardiaque)、ドイツ語(Herzinsuffizienz)、スペイン語(insuficiencia cardíaca)、イタリア語(insufficienza cardiaca)、ロシア語(недостаточность)、ポルトガル語(insuficiência cardíaca)、ウクライナ語(недостатність)、トルコ語(yetmezliği)、ギリシャ語(ανεπάρκεια)、ベトナム語(suy tim)

しかしだからといって安心してはいけない。言語関係なく、病名がスティグマを持ち始めるのは、それが社会の中でコモディティ化したとき、つまり「当たり前に」使われ始めたときなのだ。患者の前で何度も繰り返され、看板や書類に刷り込まれ、病名がその人の"属性"になってしまったとき、言葉はラベルになり、ラベルはスティグマになる。「がん」は典型だと言える。

かつて「精神分裂病」と呼ばれた疾患は、2002年に「統合失調症」に改名された。「分裂」という語がもたらす誤解と差別を避けるためだった。「らい病」という呼称もその名称による差別が行われるため、1996年の「らい予防法」廃止後、「ハンセン病」と改名された。「精神発達遅滞」や「精神薄弱」といった用語も差別的な印象を与えるとして、「知的障害」という表現へと変わってきた。2000年に法律上の表記が変更されている。英語圏でも同様で、「Mongolism(蒙古症)」は「Down syndrome(ダウン症)」に、「Manic Depression(躁うつ病)」は「Bipolar disorder(双極性障害)」へ、「Addiction(中毒)」は「Substance Use Disorder(物質使用障害)」に変わっている。

どの事例も、言葉が日常(コモディティ)化することによってそのラベルが患者本人を縛り(スティグマ)、周囲のまなざしを変え、結果としてケアの質にまで影響を与えるという共通のメカニズムを持っている。

しかも、今はインターネットにより医療用語は日常的にSNSに投稿され、検索され、Wikipediaにたどり着き、誰かのブログに登場し、YouTubeの医療系チャンネルに取り上げられる。用語は爆発的に拡散し、瞬時にコモディティ化し、意図される意味からずれていく。

病名は独り歩きをする

だからこそ自分はアップデートし続けなければならない。そしてアップデートの鍵は、「患者がどう受け取ったか」を丁寧に聴き取ることにある。

私は外来で、診断名や病状を伝えるたびに、できるだけ患者の表情や語り返しの言葉に注意を払っている。患者がその言葉をどう咀嚼し、自分の中にどう位置づけたか。それを何度も確かめる。繰り返し、繰り返し行う。対面での説明は、あるいはLINEを利用してフォローアップすることは、情報を伝えることと同時に、その情報がどう人の心に届くかを見届ける営みでもあることが利点である。今後もその機能を最大限に活かした診療を行いたい。