フランスのバカロレア(大学入試)には哲学の設問があります。6月に行われるのでもうすぐなんですが、2023年の問題の一つはこうでした。
Le bonheur est-il affaire de raison ?
幸福とは理性の問題なのだろうか?
毎年こんな感じで「なんじゃこりゃあ」という問題文。フランスの学生は4時間かけてこれに答えるのです。哲学という入試科目は「あーでもないこーでもない」と自問自答する力を問うているので、事前の準備はもちろんするんでしょうけれど、この設問を面白いと思い、あーでもないこーでもないと受験生が回答している姿を想像すると……すごいですね。
漠然とし過ぎているので、chatGPTに軽く答えてもらいましょう。フランス語で質問し答えてもらうのが便利です。というのもヨーロッパの言葉の中ではフランス語がまあまあ古いと言うか語源がしっかりしているというか、言葉の意味の定義がちゃんとしてると思うのです。日本語もその意味で大変すぐれた言語なんですけども。
💡 <GPT-3.5>
幸福とは理性の問題なのか、という問いは複雑で、議論の余地がある。さまざまな哲学的観点が、さまざまな方法でこの問いにアプローチしてきた。
幸福は理性と密接に結びついていると主張する哲学者もいる。彼らによれば、幸福は理性と論理に従って生き、徳を培い、道徳的原則に従うことで達成される。この観点からすれば、幸福は私たちの合理的な選択と反省的な行動能力の直接的な結果である。
他の哲学者たちは、感情や幸福の主観的経験をより重視する。彼らにとって、幸福とは快楽や満足感、感情的な幸福などの側面を含むものであり、単純な理性の問題に還元することはできない。これらの哲学者たちは、幸福は対人関係や美的体験、あるいは個人の嗜好といった非合理的な要因によって左右されうることを強調する。
また、幸福の追求において理性と感情の両方を統合しようとする中間的なアプローチもある。例えば、理性は私たちにとって何が本当に有益なのかを理解し、十分な情報に基づいた意思決定を行う上で役割を果たし、感情は私たちに満足感や充実感を与えるものへと導くことができると主張する哲学者もいる。
結局のところ、幸福が理性の問題であるかどうかは、採用する哲学的アプローチと幸福の概念によって決まる。合理性や論理性を重視する考え方もあれば、感情や主観的経験を重視する考え方もある。
📎 <GPT-4>
幸福と理性の関係は複雑で、これらの用語をどのように定義するかによって大きく左右される。
合理性としての理性:理性を合理性や論理と考えれば、幸福は部分的に理性の問題であると言える。例えば、合理的選択理論によれば、人は自分に最大の幸福や満足をもたらすと信じることに基づいて意思決定を行うという。また、心理学や行動経済学の研究によれば、合理的で熟考された選択をする人の方が、衝動的で非合理的な行動をする人よりも幸せであることが多い。しかし、幸福は愛や喜び、美的感覚など、非合理的で感情的な要素にも左右される。
意味や目的としての理性:一方、理性を「目的」や人生の目的という意味で考えるなら、幸福は理性によるところが大きいと言える。ポジティブ心理学の研究によれば、人生に意味や目的を持っている人は、そうでない人よりも幸せであることが多い。このことは、幸福は意味のある目標や目的意識の追求に大きく依存していることを示唆している。
また、幸福と目的の関係は、人や文化によって異なる可能性があることにも注意が必要だ。幸福の源泉として感情的・精神的な調和をより重視する人や文化もあれば、理性的で具体的な目標の達成をより重視する人もいるだろう。
結論として、幸福とは理性と感情、合理性と非合理性、具体的な目標と抽象的な意味の両方の問題であると言える。それは、幸福を高める合理的な選択をする能力と、人生の一部である経験や人間関係に意味や喜びを見出す能力の両方にかかっている。
GPT-3.5のほうがなんとなくわかりやすいですね。GPT-4はちょっと自分には無理な感じです。Claude3はどうでしょうか。
この問いは、幸福の本質と合理性との関係について考えるよう私たちを誘う。この問いに答えるために、私たちはいくつかの側面に注目することができる。
幸福を達成するための道具としての理性:理性は、私たちの長期的な幸福を促進するために、十分な情報に基づいた決断を下すのに役立つ。自分の状況を分析し、行動の結果を予測し、自分の充足のために最善の選択肢を選ぶことができる。
感情状態としての幸福 :しかし、幸福は感情的な状態であり、必ずしも理性的ではない感覚や感情と結びついていると見なされることが多い。愛、喜び、熱意は幸福に貢献する感情であるが、必ずしも論理的な推論の結果ではない。
エピクロス哲学:エピクロスは、単純な快楽の追求と過剰な欲望の制限に基づく、幸福への合理的なアプローチを提案した。このビジョンは、理性が私たちを永続的な幸福へと導くことができることを示唆している。
理性の限界:理性的な分析のしすぎは、時として自発的な幸福の妨げになることがある。経験や人間関係を分析しすぎると、今この瞬間を十分に楽しむことができなくなる。
理性と感情のバランス:持続的な幸福は、理性と感情のバランスから生まれる。理性は幸福のための適切な条件を作り出す手助けをし、感情は幸福を十分に感じることを可能にする
結論として、幸福は理性だけの問題ではないが、その追求と維持において理性は重要な役割を果たすことができる。バランスの取れた幸福は、理性と感情の両方の要素を統合し、豊かで完全な人生経験を可能にする。
だそうです。大したものですね。
さてこれに対してそろそろ還暦の自分はどう答えるのか。
♈ <自分>
まず言葉の定義をしなければならない。フランス語のbonheur 、和訳で幸福とされる言葉はbonumとaugurumという 2 つのラテン語が由来で、前者は「良い」後者は「前兆」というような意味であり14世紀以後使われている。日本語では「幸福」は江戸時代以後に作られた言葉である。英語ではhappinessという事になりシェークスピアを題材にして議論することや、フランス語であれば例えばプルースト「失われたときを求めて」の一節を参考にしても良いだろう。
九鬼周造は人間、特に日本人の情緒の原点を万葉集に求めた人であるが、彼の「情緒の系図」の分類の中には「幸福」という感情はない。一方、満足という情緒はある。九鬼の分類に従えば、幸福という言葉は原始的な情緒ではなくて理性的な何かに修飾された状態かもしれない。その何かとは、「こういう状態=満たされたものだと思え」と儒教や宗教などで教えられ身についた概念ではないかしら?などとふと考える。さすがフランスのバカロレアは良い問題出すなーなどと思う。
実存主義をフランスで学んだ九鬼がbonheurや幸福という言葉を知らないわけがなく、あえて幸福という言葉を取り扱わなかったのはそれが原始的な情緒とは違うと考えた事を意味する。実存主義とは神の存在と人間とを切り離して考える哲学であるが、九鬼は「幸福」という情緒が理性によって作り出されているような側面をもつと感じたのでは?などと想像する。日本には「●●の科学」という宗教がある。教義は知らないが、その存在をフランス人に教えたら面白がるかもしれない。宗教は一般には話題にしにくい繊細な題材だが、大学こそ言論の自由の場所だから、答案にそれを批判的に書くことは歓迎されるでしょう。
さて、理性の問題という言葉はコントローラブルで相対的だという意味で自分は使うが、幸福だけが理性由来の情緒なのだろうか。患者さんを見ていると、「満足感」のみならず、あらゆる情緒がそもそも相対的な存在だと感じる。しかもコントローラブルでありそう。だからこそ追求しがいがあり、今の自分を変えることが可能なのではないか。コントローラブルであるという事は良いことだが、案外それに気づいていない人は多く、苦労している印象がある。この数年、大学を受験する若い人たちはコロナで本当に苦労を経験したが、彼らに「幸福になってくれ」と労うような意思もこの問題には感じます。さて、これらについて書き始めたら4時間でまとまるだろうか。
還暦、な感じはありますね。
ところでこの哲学のテスト、第3問にはレヴィ・ストロースを問題として出したそうです。彼はいろんなところにフィールドワークして、「全世界の人間の共通の根源は?」を一生懸命考えた人です。構造主義という考え方。これは「脳は関数型プログラムだ」と定義していると自分は考えてます。MOMATのガウディ展を見に行ったとき、所蔵作品展の中にこのレヴィ・ストロースを題材としたものがありました。これを見て自分は一緒に行った学生に「構造主義は、最近流行のchatGPTなどLLMに敗北したんじゃないか、と僕は考えている。もともと脳の中に関数が定義されているという事はなく、ただただ最適解を探索し確率で答えを出すことが生物の本質なのかもしれない。その仕組みは哺乳類に共通しており、人間が他の動物と比較して特別、とは言えない。だからレヴィ・ストロースの仕事は素晴らしいけれどあらためて捉え直す必要があるんじゃないかしら。もう一度読むと別の解釈ができそう。そう考えるとこの展示も非常に象徴的でポストコロナらしい」と感想を述べたんです。ポストコロナでレヴィ・ストロースを問題に出すのは非常に意味があることなんじゃないかな、と思いました。
さて2024年の問題はどうなる??