2016/09/18

よだれが出る

「先生、よだれが出るんです」という相談を受けた。

何を撮ったのか全く思い出せません。

生きるか死ぬか、という重大なテーマについて深く考えている合間に、ふと「よだれ」というようなテーマが紛れ込むと私の脳はやや混乱する。しかしこういう混沌とした状態は若い頃から好きである。

患者さんと話していて、話のギアが噛み合わないと思うことは多いけれど、それは患者さんにとって、顆粒球が減って菌血症になり命をかけて戦っている事とよだれ、とは同列に扱われるからだ。そしてそうした噛み合わなさは、ときに貴重であるから、時間をかけようと思うときがある。時間をかけるかどうかは、私の気まぐれで決まる。

「どうしてよだれが出るんでしょうねえ」と私は時間稼ぎをした。

「むしろ90歳になるまでお感じにならなかったのですか?」とさらに時間を稼ぐ。

「それは凄いことではないですか?私なんかすでに同じ問題で悩んでいるのに」というとほんのすこし顔がほころんだ。これで30秒は稼げるな。

この時点で全くアイディアも結論も頭の中には浮かんではいない。先ほどまで、患者の1ヶ月後、2ヶ月後に生じる合併症を真剣に考えていたからである。よだれはそこには何も関与してこない。

そろそろ考えるか、、と頭の中に疾患を思い浮かべ始めた。しかしここでゴールになるのは患者に「◯◯病かもしれません」という事ではないのだ。患者の命は十分に危険にさらされている状態なので、これ以上の騒ぎになるのはなるべく防ぎたいという私の気分がまずある。患者を納得させる気の利いた一言だけ思い浮かべば良い。

よだれを自覚したのは突然かどうか。
見た感じ、神経疾患がありそうかどうか。
そのよだれで困っているのかどうか。
嚥下障害や口輪筋障害なのか、唾液量が多くなっているのか。
それは原疾患と関連するのか。

「いつごろから自覚をしたのですか?お口の中には違和感や痛いところはないですか」「手のふるえはないようですね、歩く歩幅がせまくなったりしましたか?それもないようですね」「よだれで非常にお困りですか?」「構語障害はないですか?あ、言葉が難しかったですね。おしゃべりは普通にできますか?」「ものの飲み込みは大丈夫ですか?」「唾液は増えたという気がしますか?」唾液が増える薬というのが時々あって、コリン作動性のお薬である。そういう薬は多くはない。コリンがどーっと出ると下痢になるわけだけれど、ウブレチドはコリン作動性のお薬で、あと認知症の薬の多くはそんなような作用があってお年寄りはむしろ便秘の人が多いから一石二鳥だったりする、その他には尿酸の薬も下痢をする人がいるからもしかするとそんなことがあるかもしれないと思ったりする。時々帯状疱疹のあとなどに神経のつながり方がおかしくなり、汗をかくような信号で唾液が出たり、というような障害が出る人もいます。

実際にはこんなにきちんと流れるようにインタビューをしているわけではない。聞き取れなかった質問も多かろう。割合最近気づいたらしいから、この方の過去の顔面神経麻痺のせいだと言うと納得してくれなさそうだとか、唾液を増やす薬は飲んでいないなあとか、入れ歯はどうなんだろう、痩せてそれが合わなくなったとかかなあとか、抗凝固薬は飲んでないけども小さな小脳周辺の虚血でそうなることあるかなあ、でもMRI撮るの嫌だなあ、患者も望んでいないだろうし、などとぐるぐると考える。神経所見でもそれら(パーキンソンや脳梗塞、神経麻痺)を示唆する症状はない。

こうして必死に考える努力をしてみる。診断よりは納得してくれる一言を探しているだけである。頼むよ、自分の脳。すると、勝手に口が喋ってくれる事があり、私はそれをとても頼りにしている。






「それは前屈のせいですね」




(お、私の口が勝手に喋ったぞ)と思った。前屈とは前かがみの姿勢のことだ。なるほどそうかもしれない。そうとわかれば理由付けは自分の仕事である。

「以前は、背がピンとしてらっしゃったんですがそういえば心持ち姿勢が前かがみになったでしょうか。そのせいで口から唾液が垂れる、と。今のお話や診察からはそう考えました。私はきっと猫背だからよだれで困るんでしょうね」

「ああ、そういえばそうかもしれません。気をつけてみます」

(良かった、一言で納得してくれた。心配させないですんだろうし、しゃんとした自分を思い出してもらって元気を出してもらえただろうか)と思った。患者さんを心配させない一言というのは難しい。無難な内容で患者さんが理解出来、対処がある程度可能で、嘘でもない、少しだけ患者が喜べばもっと良い、そういう条件を満たす言葉はそれほど多いとは思わない。

次回の外来ではよだれの件をもう一度話題にすることとカルテに書いて終わりにした。悪化していたらまた考える。

慢性疾患の経過観察中に別の病気が見つかる場合、こうしたやり取りから始まることがある。「肋骨が痛い」からバセドウ病の診断に至った場合もある。「なにもない」から診断ができる病気もある。こうした作業はディープラーニングのようなものであり、自分の口は自分が鍛えた人工知能なのだと考えている。発想の仕組みはわからないのだが、たくさんの情報を入れることが大切だと感じている。だから患者から「先生は原資料を持ってきなさいと言うが、いったいどの部分が役に立つのだ」という質問があり、「実は自分でもわからないのだ。でも答えはそのおかげで出ていることが多い」と答えているのは嘘ではない。

2 件のコメント:

  1. 昔、タモリが「歳とったなぁと思うのが、最近歯を磨いてると口から垂れて」とテレビで語ってて。原因はやはりこのケースと同じだろうな、と思います。ただ、前屈ってパーキンソニズムの症状の時もあるので神経所見はとることにしていますが。

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    1. POMC先生こんばんは
      患者さんの何気ない一言、特に慢性疾患の経過観察中の一言の中から何を見つけ出せるのか、というのは臨床センスを問われる重要なイベントですよね。タモリさんのように観察力と記憶力がある人はかなりの疑問を自己解決なさるのでしょう。議論してみたい。
      自身の経験ではパーキンソニズムと亀背が多く、あとは脊髄小脳変性症は見つけたことがあるのですが、今回は患者さんにパーキンソンの言葉は聞かせたくはないという意識が働いた気がします。

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