2016/04/17

知の神話

東大総長の五神真先生による東京大学大学院入学式の式辞は面白かった。(直接聞いたわけじゃないけど)

平成28年度東京大学大学院入学式 総長式辞 | 東京大学

今、日本語の母音があいうえおの五音に(文字のうえでは)縛られているわけだけれど、これが決定されたのは明治のことであって、それ以前は少し緩かった。

五十音のおかげで日本人はケータイやスマホに親和性が高い説もあり、デザインする上でその発展を勉強するのは無駄ではないと、昔坂井直樹さんの学生さんたちに1時間ほどレクチャーする機会があったので調べたことがあったのだ。

坂井直樹のデザインの深読み

五十音の成立を勉強した時に、本居宣長の存在が極めて大きく感じ、ぐぬぬこの天才めここでもお前か(日本史上で一番天才だなーと思ってるのが本居宣長)、と思いながら馬淵和夫先生の五十音図の話を読んだことを思い出した。


総長のお話では本居宣長の弟子である石塚龍麿の埋もれた研究を、橋本進吉先生が再発見したストーリーが語られている。また梶田隆章先生が膨大なデータの中のわずかなゆらぎに気づいたエピソードも語られた。


エラー、などと言って我々やコンピューターが捨ててしまいがちな中に真実が眠っていることがあり、その中から真実を見つけ出すのは憧れであり、時に神話のように語られる。

(英語では神話・mythというと、「嘘」というようなニュアンスがあるけれども、日本語での神話は神聖なもので、その中に真実がある、というようなニュアンスがあり、ここで使う神話はそういうポジティブな意味だ)

そうした神話性を悪用して天才ではない人々が「例外的な」「希少な」「実は」という言葉を用いてエラー知をひけらかす(疑似科学)、という事が現代では当たり前のように行われている。医療は特にその側面があるので自らへの戒めとしたい。

ところでいろは歌は奇跡の歌だ。あの美しく完璧な歌があるおかげで、かなは五十音に収束せざるを得なかったと感じる。音韻学者は平安から江戸にかけてたびたび「本当の音韻を文字であらわすには」と挑戦し、結局敗れていった。

0 件のコメント:

コメントを投稿