2010/06/20

無量寿

今朝NHKラジオ第二で、「無量寿」という言葉を聞きました。

人がなぜ「死にたくない」とか「長生きしたい」と言うのかーーその、「死に切れない思い」というのは永遠なるもの(無量寿)に出会っていないからではないか。

(したがって宗教者は神の永遠性を信者に提示するのだ、という風に論旨を持っていくわけです。本日のラジオでもそうでした。神の永遠性を信じれば救われる、と)

宗教の話はおいておいて、永続性のあるもの、無論宇宙は終わるわけですが、そんな何十億年も先の話ではなく、とりあえず百年ならば百年、あるいはそれ以上永続するものに自分が関わることが出来たとしたら、確かに人は満足するかも知れないなあ、とラジオを聞きながら思ったわけです。

ここで重要なことは、「永遠なるものに出会うだけで、人は救われる」という論旨だと思ったのです。

例えば芸術家で、「何かを残したい」と強く思う人がいたとします。まあしかし、それは人としては欲がちと深いと思います。もともと芸術家というのは欲が深くないとできない商売だから、それで良いのです。でもそれを万人に当てはめると罠にはまる。学者が「歴史に残る論文を書かねばならない」だとか、思うのは、思うのは良いとしても、少なくともそれが達成されないからと行って、「死に切れない」というほど思いつめることは一般の人(特にリタイアした老人では。若い人は別です)はないのだろうな、と思ったわけです。

例えば、数学の勉強をしていると、これは神様が作っただろうという永遠の世界を覗き込むことが可能です。一般に、勉学を突き詰めていきますと、調和のとれた美しい世界を垣間見ることが出来ます。そういう永遠の世界を見ますと、思うことは、自分がやらなくてもいずれ真実は明かされるだろうと言う安心感です。この安心感と言うのは重要で、私はもともと祖母や母の影響で、あまり「死」というものに対して執着がないわけですが、「いつ死んでも本望」という心持ちになるわけです。勉強って言うのはとても重要だ、と思うひとつの理由はそれです。

むろんそこに欲があって構わない訳で、「自分が発見するんだ!」という熱烈な欲求を満たすために日々頑張ることはいいことですが、おそらく途中で死んでしまってもその人が化けて出るって事はないんじゃないかと、思います。永遠の世界を、その人は見たわけですから。

で、「死にたくない」とか「長生きしたい」という人に、永遠なるものを見せる事ができれば、たぶんその方は満足して成仏してくださるんじゃないかと思ったわけです。

そう思えば、例えば子供の成長した頼もしい姿を見ることは、ひとつの永続性(むろんせいぜい数十年の)を見出したことと同じです。親が死にそうになっても、「大丈夫だよ、ついているから」と子どもが言ったら、なんだかとても安心して死ねそうな気がしてきました。家族って言うのは良いですね。

人間だれしも老いと直面して生きねばならないのですが、その頃には頭がまわらなくて、学問の美しさなんて理解できなくなってしまい、今は生に執着していない私ですが、その頃には学問的に不安になって執着しているかもしれません。その時には家族や友人に救われたりって事もあるのでしょう。

そろそろ落ちを用意しなくちゃいけません。というよりも、長くなって飽きてしまいました。

ラジオを聞いたときに、私が真っ先に、「ああ、だからみんな『息子さんは医者になるんですか?』って聞くのかなあ」と思ったのです。患者さんは、私に永続性をたぶん求めている。知っている人はたぶん、私の母の家が古い医者の家系だということはわかってるんでしょう。そして父と私とは性格は違うけれども、医療哲学は似通っています。当院は、父と私、ランダムに患者さんに相対しますが、ほとんど方針にぶれがありません。これは親子でやっている医院としてはちょっと珍しいかも知れません。やってる事は現代医学なんだけれど、なにか別のものを私に求めているのじゃないかと言う気がしました。祖父が生前、「医者の世襲は結構重要」という話をしていました。医者というのは古来はパトロン探し、そしてパトロンのノブレス・オブリージュの手足となって働く職能であるというような事を聞いていました。そういう事がわからん連中が医者になるのはたまらんと祖父は言っていましたが、私にはよく意味がわかりませんでした。今も世襲じゃなくて良いじゃないかと思いますし、父は一言だって私に医者になれなんて言わなかった。

しかし、もしも患者さんが、特にみな死と隣合わせなわけですから、我々に永続性を見たいのであれば、それはそうかもしれないと思いました。ですから、『息子さんは医者になるんですか?』って聞かれたら『なりますよ、たぶん』と答えれば、相手は成仏してくださるかも、知れないと思ったのです。

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